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コラム『金剛学園における宝石』

 ーー県にある金剛学園は、今年創立100周年を迎えます。これも歴代の先生方、在校生、ご父兄の皆様、校友会メンバー、そして地域の皆様があってこそ迎えられた100周年です。本当にありがとうございました。そして、どうぞこれからもよろしくお願いいたします。  今回は記念すべき100周年でありますので、金剛学園の設立の経緯をお話しさせていただきます。  江戸時代初期に金剛学園は、大名の子供のための教育機関として発足しましたーーその頃は厳密には現在の金剛学園と体制が異なるため、体制が改まった年を、金剛学園の創立としていますーー。  皆様にとっても聞き覚えがある参勤交代。 当時世界は徳川でありましたから、各大名はその御触れに従い、江戸を離れているときは正室と世継ぎを江戸に常住させ、年に一度だけ、大義名分としては徳川に、実際は正室と世継ぎに会いに江戸まで通っていました。  側室および世継ぎ以外の子にはそのような義務はありませんでしたが、正室と世継ぎは一年のほとんどを夫・父親である大名に会えずに過ごし、さらにはその会うための莫大な滞在費を各藩が負担していました。  ですが参勤交代が始まってから数年、とある事件が江戸中で起こりました。諸大名の世継ぎが(ここではあえて強い表現を使いますが)嬲られ、殺されかける自体が多発したのです。  命こそは助かった子供がほとんどだったそうですが、そのほとんどが精神的に大きな傷を負ってしまい、しまいには川に身を投げ自害する子供も出てしまったそうです。  これに全国の諸大名が徳川へ異議を唱えました。正室と世継ぎまで預け、莫大な金を支払っているのに江戸はこのざまか、と。 自分たちが子供を守ってやれないからこそもどかしい思いもあったのでしょう。そのあまりに強い抗議に時の将軍、徳川家光も重い腰をあげました。  その計画が『大名の子供を守る教育機関を作る』というものでした。  具体的に言えば、抜群の警備や施設が備わった全寮制の学校を江戸から離れた場所に設置し、そこで武家の子供を護衛、教育する計画です。  教育内容的にはとても偏ったものでした。  未来の大名としての生き方を叩き込まれ、徳川に謀反をしようなどと考えさせないような、とても独善的な内容でした。ですがそれを除けば、とても高度な教育を行っていました。  全国から優秀な僧を集め、読み書きは勿論、今で言う帝王学に始まり、蘭学者なども集め国内外の様々な知識を身につけさせました。そして大名である父親の代わりとなって武術から体術、戦で必要な思考や技術、ありとあらゆるものを教育していたのです。  それは学校に守られるだけでなく、もしものために自分の身を自分で守るため、という名目で行われていましたが、本当のところはいざとなれば徳川の優秀な戦力として戦わせるためだったとも言われています。 実際にこの学園から輩出された生徒は、全国各地へと戻り多大なる貢献をもたらしています。 そしてその時期に、現在の和歌山県にある金剛峰寺を徳川家が子院の大徳院を菩提所・宿坊と定めたこともあり、それにあやかって名前を『大菩薩金剛學処(だいぼさつこんごうがくしょ)』と定めました。  余談ですが、私たち金剛家は、元来は学校に敷地や労働力を提供した苗字のない大きめの商家でしたが、学校経営に関わっていくうちに金剛學処の実権を握るようになりました。そして幕府の信頼を得て学校全体を任せてもらうようになった際に、幕府から金剛の苗字をいただいたとされています。  初めこそ大名の子息ばかりでしたが、次第に学年での人数のばらつきが露呈しました。そして学園の収支にもムラが出るようになったことで、収入を安定させるために大きな商家や武家の子息の入学も許すようになってきました。そうすることによって学園の収支も安定し、生徒人数も増えたことにより、優秀な人材をたくさん排出し、学校の実績も増え『雲上の仏が菩薩になる学び舎』とまで言われるようになりました。  ここでなぜ我が学園には『宝石』がいるのかと言う話になるのですが、もともとは、この学園全ての生徒の全てが宝石でした。  江戸幕府と地方大名をつなぐ大事な宝。幕府としても、何名もの命を賭してでも守らなければいけないものでした。この宝石は、手入れをしてくれる人間がいなければ自分だけの力では輝くとのできない、無知で非力な生徒たちに皮肉を込めて呼んだものだともされていますが、実際に生徒たちはこの学園で学び、過ごし、宝石のような輝く偉人として巣立って行きました。  しかし財力のある子供を入学させるようになってから、幕府にとっての宝石は少なくなりました。それらを区別するため大名の子供たちを宝石と呼び、教師たちはもとより生徒たちにも特別扱いさせるようにしたのが、宝石という呼称の始まりです。  時は流れ、現代では大名や家族と呼ばれる人々はいなくなり、全てが一般家庭出身の生徒となりました。宝石自体も名前だけが形骸化し『学園で光り輝く特に将来有望な生徒』という意味にかわりました。  今では生徒の規範となり憧れとなり学園を背負って立つ生徒が、宝石と呼ばれます。  学園行事や学校行事なども先頭に立つ、金剛学園のシンボルとして奉られるのです。  金剛学園の代表として先立って社交界へ出るのも、この宝石です。生徒会長と似たような役割のため生徒会長が宝石を兼任することがほとんどですが、基本的に生徒会長は主に宝石を補助するものです。  宝石は代々、現宝石が次の宝石を指名してきました。そのほとんどは卒業する際に指名されるものがほとんどですが、ごくごく稀に任期途中でも次の宝石を指名することがあります。  現時点においてそのように指名された宝石は数える程もいなく、もし任期途中に宝石を指名する現場に立ち会うことができたら、それはとても幸運なことだと言えます。

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