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 父さんがどこかから持ってきたらしい望遠鏡。それを芹澤に担いでもらって、二人で自転車で丘へ向かう。ぽつぽつと道端に光る街頭と、星と月の光だけが頼りの夜の道。夏が近づいてきたからか草の匂いが鼻をくすぐって気持ちいい。からからと自転車の走る音が響いて、夜風が頬を撫でて。昔流行った天体観測の歌を歌いたくなる、そんな気分。 「夜中に誰かと一緒に外出するのが初めてなら、天体観測も初めて?」 「……うん」 「じゃあ、楽しみだな!」 「……うん」  あの丘まで二人、少しだけ会話をして自転車で向かう。それだけのことで、こんなにも高揚するのは芹澤と一緒にいるからだろうか。  しばらく漕いで、丘にたどり着く。まだ流星群の流れる時間には少し早い。自転車を停めて、望遠鏡を設置して、俺たちは夜空の下に腰掛けた。 「あー、なんかいいわぁ、これ」  俺はどさりと背も地べたにくっつけて、夜空を見上げた。涼しい風が気持ちよくて目を閉じる。普段は都会のほうで遊んでばっかりで、こんなふうに自然の中でのんびりとなんてしない。だから、こうして好きな人のとなりで夜空を見上げているだけで、胸が満たされてゆく。 「……芹澤」 「……ん?」 「……俺と付き合わない?」 「……付き合わない」  ああ、やっぱりこの丘にいると素直になれる。ぽかんと胸のなかに浮かんだ言葉はためらいなく唇から飛び出した。でも、やっぱり芹澤には拒絶される。ちらりと芹澤の表情を伺い見れば、芹澤は顔をほんのりと赤くしながらも困ったような顔をしていた。 「はじまったら、必ず終わりがくる」 「……それ、前も言ってたけど」 「どうせこの人生がずっと苦しいなら、ずっと苦しいままがいい。眩しいものをみちゃうと、またそれが欲しくなる。でも、俺には絶対に眩しいものは手に入らない。今、藤堂が隣にいてくれているのなんて、奇跡みたいなものだから。だから……藤堂とは付き合わない。……ごめんね」 ――なあ、おまえ、やっぱり俺のこと好きだよな。だったら俺が幸せにしようとしちゃだめなのか。  俺は絞り出すような芹澤の声に胸が締め付けられた。体を起こして、芹澤の肩を抱き寄せる。ぐっと抱きしめてやれば、芹澤はすり、と俺の首元に頭を擦り付けてきた。 「……何が、そんなに苦しかったの」 「……親が、片親だった。俺は、母親が14で売春をしていたときに生まれた子。父親は、わからない。母親は親に縁をきられて一人で生きて……学もないから体を売る仕事をしてお金を稼いでいた」 「……」 「……それで、……俺は、……「インバイの子」って言われて近所の人からも同じクラスの人からも疎まれた、いじめられた。ずっと……ずっと」  芹澤の体が震える。いじめられた記憶が蘇ってきてしまっているのだろうか。俺が芹澤の背中を擦ってやると幾分かそれは収まったが、体は縮こめたまま。 「……高校は、俺をいじめた人たちから離れようと偏差値の高いところに入ろうとがんばった。だから同じ中学の人はほとんどこの高校にいないけれど、……でも俺は何も変わっていない。変なんだ、俺。ずっと苦しくて……そうしたら、なんか俺、変になっちゃった」 「……変?」 「心がどんどんひねくれていっているのが自分でもわかる。何一つ、明るいことを考えられない。この世のものすべてが憎たらしく見える。わかるでしょ、俺、酷い性格してるよね。……藤堂もさ、今は一時の気の迷いみたいなもんで俺のことを良く想ってくれているかもしれないけれど、絶対にそのうち嫌いになるよ。そうしたら――別れるでしょ。どうせ別れるなら、付き合いたくない。俺は一生地獄だけを見て生きていたい」 ――怒りを覚える。何に、かはわからない。ただ芹澤がそんなに苦しまなくてはいけないという事実に、怒りを覚えた。  思い返せば芹澤は、子供っぽいくらいに暴言が多かった。でも、ずっといじめられてどんどん卑屈になっていけば、そうした性格になるのは当たり前のようにも思える。そんな芹澤に軽率に「むかつく」って思っていた自分を殴りたいし、何も気づけなかった自分も殴りたい。 「……だから、週末だけ。週末のあいだだけ、「夢だった」で済ませられるくらいの幸せが欲しい。何も始まらないくらいの、些細で短い幸せが、欲しい。……ごめんね、藤堂」  じくじく。心臓が端のほうから焼かれていくような、そんな焦燥を覚えた。芹澤の言いたいことは、わかったよ。芹澤の事情も、なんとなくわかったよ。おまえはすごく辛い思いをしてきた。自分に幸せが似つかわしくないと、そう思っていた。だから、たとえ俺と付き合ったとしてもすぐにその恋は終わってしまうと思って、俺と付き合うことを拒んだ。  わかってる。芹澤の想いは、理解した。  でも―― 「……ッ!?」 ――そんな哀しい思いをしているおまえを、どうして俺が放っておけるんだ。  俺は芹澤の頭を掴んで、その唇を奪う。そして、勢いのまま押し倒した。 「――決めつけてんじゃねえ……! なんで「終わる」なんて決めつけてんだよ! 離さねえよ、俺はおまえを幸せにする、ぜったいに最期まで離さない……!」  激情のままに、叫んだ。そうすれば芹澤はきゅっと唇を噛んで、瞳をうるませる。でも、すぐにふいと俺から目をそらしてしまった。 「……何を根拠に……俺と一緒にいたって藤堂が辛いだけだよ。何回も言うけど、俺、変だから」 「芹澤だって辛いんだろ……なら、俺も一緒に苦しむよ」 「……っ、そんなの、……勢いで言ってるだろ! 俺は……幸せになんて、なれないんだよ……もう、無理なんだってば……」 「だから俺に芹澤のこと、幸せにさせてくれって……なあ、芹澤……」  芹澤は、逃げようとする。幸せから逃げようとする。俺はそれを許したくない、逃がさない。    週末だけ、って限定しながらも俺のそばにいたいと思ったのはやっぱりそういった幸せを求めているからなのに、それを諦めている芹澤を放ってなんておけない。  芹澤のそばにいたい。芹澤の笑顔を見たい。俺が、芹澤のことを笑わせてあげたい。 「……お願い、芹澤……俺のことを、信じて……」 「……っ、」  どうしたら想いは届くんだろう。我武者羅に叫んだって、芹澤には届かない。それはわかっているのに、俺には伝える言葉がみつからない。辛くて、辛くて……目頭が熱くなってくる。視界が、滲む。 「……とう、どう」  ぽた、と涙の雫が芹澤の頬に落ちる。情けない。まともに想いを口にできないからって泣いてしまうなんて。悔しくてまた涙がでてきて、それは溢れてきて、止まらない。 「……なんで、泣くの」 「ごっ……ごめ、ん……」 「なんで……俺のことをそんな目でみるの」 「えっ……」  俺の目元に、何かが触れる――それは、芹澤の指だった。芹澤は俺の涙を指で拭いながら、泣き出しそうな瞳で俺を見つめる。 「……藤堂、なんでそんなに優しい目で俺をみるの」 「なんで、って……」 「……どうして、藤堂……どうして俺なんかに、そんな目を向けるの。藤堂……」  芹澤の両手が俺の頬を包む。そして、引き寄せてきた。息のかかるほどに近づけば、いつも焦がれていた綺麗な瞳が目の前に。 「そんな目で見るから……俺、……藤堂にどきどきする。おまえは見た目が俺をいじめてきた奴らに似ていたから嫌いだって思っていたのに、やってくることも横暴で本当に嫌いだって思っていたのに、……目は優しかったから……どきどきした。藤堂と一緒にいたいって、夢を見るようになった。……ずるいよ、藤堂。そんな目で俺を見ないで。どきどきして、藤堂から離れることがどんどん苦しくなる」  泣きだした芹澤の表情は、みているこちらの胸が締め付けられるほどに悲痛なものだった。むしゃくしゃして、感情がせりあがってきて、俺もまたぼろぼろと泣いてしまう。 「……だから……離れるなよ。夢とか言うなよ。俺は……おまえを幸せにできるように頑張るから……お願いだから、泣かないで」 「でもっ……俺、……絶対、藤堂に嫌な思いをさせるから、……」 「そんなの、当たり前だろ……! 人と人が付き合ってりゃ何かしら面倒事があるんだよ……それを避けるなよ、俺のことを傷つけるくらいの勢いでこいよ……俺は、その覚悟で、おまえを好きって言ってんだよ!」 「……っ」  芹澤の頬に手を添える。そして、唇を食らうようにしてキスをする。芹澤は身を捩って逃げようとしたけれど、俺は逃さなかった。唇が離れれば追いかけて、またかぶりつく。何度も何度もキスをして、芹澤を俺の中に閉じ込めた。 「んっ……ん、……」  言葉だと、頭の良くない俺はどうしても上手く想いを伝えられない。だからこうして無理やりキスをするしかなかった。キスで、身体の内から溢れ出る想いを芹澤にぶつけた。 「……!」  夢中になってキスをして、繰り返し繰り返しキスをして……そうしていると背中に何かが触れたのを感じる。……芹澤の腕だ。芹澤が、俺を抱きしめて……キスを受け入れたのだ。  どくん、と激しく心臓が高鳴った。あまりにも嬉しくて、どうにかなってしまいそうだった。俺は最後にぐっと深く口付けると体を起こす。 「……芹澤」 「……俺、今まで藤堂が付き合ってきた誰よりも性格悪いと思うよ」 「知ってる」 「……俺、藤堂に酷いこと言うよ」 「……知ってる」 「……藤堂、」  ぽつりぽつり、芹澤が震える声で質問をたくさん投げてくる。ひとつ質問を吐き出すたびに芹澤は嗚咽をあげて、そして俺が答えるたびにぽろぽろと涙をながして。  ひく、ひく、と声をあげながら大量の涙をながして泣き出した芹澤は、俺を見上げて絞り出すように言う。 「……信じて、いい? 藤堂のこと信じていい?」 ……ああ、もう。  ぐしゃぐしゃな泣き顔で、顔を赤くしてそう言ってきた芹澤の愛おしさといったら。よかった、なんとか俺の想いが伝わった。きっとまだ不安だらけなんだろうけれど、それでも芹澤は俺を信じようとしてくれた。 「……おう、信じろ!」  嬉しくて、思いっきり笑顔で俺は頷いてやった。そうするとまた芹澤はぎゅっと唇を噛みながら涙を流す。くいっと俺を引っ張って抱きついてくると、わあと声をあげて大泣きし始めた。 「大丈夫、信じろ、芹澤」 「うう、……とう、どう……」 「幸せにするから」 「うん……うん、……」  よしよしと頭を撫でながら、芹澤を抱きしめ返す。そして、俺もまた泣きながら聞いた。 「……俺の、恋人になってくれますか」  しゃくりをあげて、嗚咽をあげて、息も絶え絶えに。芹澤はぐっと俺の背を掴みながら、小さな声で答える。 「……はい」  芹澤は、弱々しく言った。でもその声は今まで聞いたどの音よりも鮮明に聞こえた。体も、心も、魂までもが歓んだ、そんな風にゾクッとする。芹澤の表情を覗いてみれば、心臓がぎゅっとした。あれ、ここまでこいつ可愛かったっけ、って。芹澤は、俺の恋人なんだ……そう実感した瞬間に、愛しさが溢れ出した。 「……っ、芹澤……好き。好きだよ、芹澤」 「と、藤堂……」 「ありがと、信じてくれて」  体を起こして芹澤を見下ろすと、芹澤の瞳がきらきらと輝いていた。星と月の光が反射しているのかもしれない。ああ、そういえば流星群の流れる時間がすぎている。振り向けば満天の星空にたくさんの流れ星が降っているだろう。でも……俺は、芹澤から目を離せなかった。星の雨よりも綺麗なその瞳を、見つめていたかった。 「藤堂……星、綺麗」  ぼやいた芹澤の瞳に、流星群が映る。でも、芹澤は星をみていない。芹澤の手は俺の頬に伸びてきて、そして、触れる。 「藤堂……」  芹澤も、同じだ。星を感じながら、俺を見ている。好きだ、芹澤。愛おしい。  芹澤に引き寄せられるままに、唇を重ねた。芹澤の手をとって指を絡め、地面に縫い付けて。角度を変えながら何度もキスをした。 「芹澤、」  何度、キスをすれば芹澤の心から不安が消えていくのだろうか。たとえば今広がっている星の数よりもたくさんのキスを贈ったら、芹澤の心から霧は晴れていくだろうか。  自信満々に「信じろ」なんて言ったけれど、俺にできることなんて芹澤のことを精一杯愛することくらい。だから、そのためにならなんでもしたいと、そう思う。 「藤堂……もっと、」  その、俺が焦がれた瞳は、俺を映して蕩けている。いっぱいいっぱいの、不安だらけの心で俺を求めてくれているのがたまらなく嬉しい。  俺は芹澤に目を奪われて見ることができなかったけれど。流れ落ちる星にもしも願うなら、芹澤と俺の永遠の幸せだったと思う。

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