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『涙くん。それ、なあに?』  色が、わからなくなったのは、随分と小さな頃だった、気がする。耳鳴り、頭痛、視界の端がぼやけて、そして目に映るものから色が消える。時折それは回復するから、完全に色がわからなくなったわけでは、ないけれど。俺はほとんどの時間を、モノクロの世界で、生きていた。 『空、です』 『空? 空は、黒じゃないよ』 『でも、黒く、見えます』  小学生のころ、絵を描くと先生に不思議な顔をされた。黒い絵の具ばかり使ったり、現実とは違う色で塗ったりするから。 『せんせー、そいつ、キチガイだから色もちゃんと塗れないんだよー!』 『インバイの子だもんねー!』  そして、そのたびに、クラスメートから罵倒された。俺は、自分の見ている世界が、おかしいと気付いていて、そしてそのおかしさに苦しんでいたから、辛かった。  綺麗な世界を、本当の世界をみたいと、思ったり、していた。  そう、だから。結生とみた、たくさんの、綺麗な景色。結生と、一緒にいれば、モノクロだった世界が色付いていく、そんな、幸福。それを、今の俺は、求めていた。 「涙は、街でデートするのと、あの丘みたいなところに行くのだったら、どっちが好きなの?」 「……どっちも、好き、だよ」 「あ、まじでー? 丘に行きたいって言ってくれたから、後者なのかと」 「……結生と一緒なら、どこでもいい」 「……ふ、なにそれ。嬉しい」  たとえば、街だって。ビルの一つひとつのデザインとか、街路樹とか、そういったものを、結生と一緒に見れば楽しいと、感じる。俺が、丘に行きたいと言ったのは、昨日みた、流星群があまりにも綺麗で、その光景が頭の中にずっと、残っていたから。今の時間に行っても、星は見れないけれど、でも、あの丘は空気が澄んでいて、綺麗な景色をみることが、できる。結生と、カラフルな、景色をみたかった。 「……じゃあ、結生は? いつも、友達と街で遊んでいるから……街が、いい?」 「んー? 街も好きだよー。でも、涙と一緒にいるなら、自然の中がいいかなあ。なんとなくね」 「結生が、街に行きたかったら、街でもいいよって、言おうと思って、」 「そう? じゃあ次の休みの時は街に行こうな」 「……うん」  自転車に乗って、風を浴びながら。俺たちは、ぽそぽそと会話をしていた。結生も、俺と外に出るのを、楽しいって思ってくれていて、嬉しい。結生が楽しそうに笑うと、ほっとした。  丘について、自転車を止めて、二人で座る。やっぱり、結生とみるこの丘からの景色は、綺麗だった。からふる、だ。青い空、とか。緑の木々、とか。色んな色の屋根が楽しい、町、とか。そういえば、幻聴が聞こえることも、ない。今の聞こえるのは、風の吹く音と、鳥の鳴き声、それから虫の鳴き声。ほんとうに、心地よい。 「……結生」 「うん?」 「……ごめんね、俺、いっぱいうざいこと、言ったよね」 「え、いいっていいって、大丈夫だよ、涙」 「……また、言っちゃう、かもしれないんだ。俺……結生に嫌われること、いっぱいする、と思う」  結生と、二人でいて。ただ、そこにあるのは、幸せだけ、だから。俺の心には、負担がかからない。だから。こうして、綺麗な景色を、みることができる。でも。また、色んな人がいる学校に戻ったりして、そうしたら、心に負担がかかって。どうしようもなく、不安になって。また、暴言を、言う、かもしれない。 「俺、自分の苛々を制御できないから。変なことで癇癪起こして、キレて……そんなことをして、結生に嫌われるかも」 「嫌わねーって。涙が、辛いものを抱えてるって知ってるもん。むしろ、それを受け止めて俺は笑ってやるよ、安心して俺にいつもの憎まれ口をたたいてこい」 「……、……うん、」  でも、結生は……そんな俺のことも、否定しなかった。嬉しくて、目尻が熱くなってくる。 「う、……」 「ほら、……泣くなら、こっち」  涙が、こぼれる。結生が、腕を広げてくれたから、俺は、結生の胸に飛び込んだ。力強い腕が、俺を、抱きしめてくれる。じわりと浸透してゆく、結生の熱と力が、俺に、安心感をくれた。  そのまま、どさりと、地面に結生が背中から、倒れ込んだ。俺を、抱きしめながら。結生は、俺の髪を優しく撫でてくれて、俺は気持ちよくて、結生の胸板に頬をくっつけながら、うっとりとしてしまった。 「涙。不安になんて、思わなくていいよ。ゆっくり、俺と進んでいこうな」 「……うん」  ぽろぽろと、こぼれる涙。結生の言葉が、あまりにも嬉しくて。どんどん涙が、あふれてきてしまう。そして、同時に結生が好き、って気持ちも。  俺は、泣きながら、体を起こして、結生にキスをした。  葉風が立つと、さらさらと、草木が揺れる音。結生の、金髪が、きらきらと光る。キスをしていると、そんな綺麗な自然と、一体になっているような、そんな錯覚に陥る。気持ちよくて、幸せだ、そんな感じが、心の中にぽかりと浮かんだ。 「結生……」  ごろりと、横になろうとすると、結生が俺の頭を腕に乗せてくれた。俺は、結生に寄り添いながら、空を眺める。 「……綺麗。結生、綺麗だね」 「……ああ」  眩しい空が、世界を包んでいる。これから、何度、この空を見ることができるのだろう。結生と、一緒にいれば、空は、美しい。けれど、結生と離れたら、きっとまたモノクロに変わる。    いつ、結生に捨てられるのかな。この幸せは、いつまで続くのかな。俺が、幸せでいることなんて、奇跡、だから。きっと永遠になんて、続かない。ほんの一瞬、神様の気まぐれで、俺はひとときの幸せを、手に入れた。  だから。この空の眩しさが、儚い。泡沫ように消えて、俺にとっては、夢になる。眩しい。空が、眩しい。  結生。好き、好き、だから。俺に飽きるまでは、どうか、たくさん俺に、幸せをください。

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