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「目の調子はどう?」
「目?」
「色、わかる?」
「……わかんない」
少しの間電車に揺られて、俺たちがついたのは東京湾。涙がいた場所から一番近い海といえば、ここだった。埋立ててつくられた海だし、沖縄とかの海に比べたら広大さとかで劣るだろうけれど、俺は東京湾もなかなかに好きだった。目が悪い状態にある涙が、どう思うかは想像がつかないけれど。
涙は、ずっと俺の手を握って、無言で着いてきていた。電車のなかでも、電車を降りても。やっぱりにこにこと笑いながら、俺に寄り添ってきた。
……こういう笑顔は、みたくなかったんだけど。
涙は今までほとんど笑わなくて、ずっと俺は涙の屈託のない笑顔をみたいと思っていた。でも、こんな笑顔なんて、見ていられない。心の中が空っぽになって、俺の側にいるという喜びだけを持った、そんなスカスカの涙は、見ていて苦しい。
「涙、見える? あれ、海だよ」
「……うみ」
涙が、ちらりと、海を眺める。
広がるのは、東京の海。透き通った青さとか、眩しい砂浜とかはないけれど、地平線の果てに見える世界の広さはまさしく「海」だ。吹き抜ける風は潮っぽくて、生温い。
「……、」
降り注ぐ太陽の光が、波間に反射する。涙は眩しそうに、目を細めていた。髪の毛がぱさぱさと靡いていて、少し鬱陶しそう。
「……あれは、何色?」
「青かな。どこまでも、ずっと、青いよ」
「……」
涙が、ふらふらと、海に近づいてゆく。青い海に吸い込まれるように歩いて行って、そして、手すりにとん、と手を乗せた。何が見えているのだろう、そう思って隣から涙の目を見てみれば、そこに映るのは飛沫をあげる漣。ぽかんと口をあけて、ぼんやりと固まって、そして涙は――遥か彼方の地平線を眺めている。
「……」
「……涙?」
「……」
涙は、何も言葉を発しない。ただただ、海を見つめている。
何かを、感じているのだろうか。俺も一緒になって、地平線を見つめる。
潮風が髪の毛と、シャツを揺らす。穏やかな時間だった。ついさっきまで、凄惨な光景をみていたのが嘘のように。かもめの鳴く声とか、漣の涼しい音とか、鮮やかな音たちが耳をくすぐって、気持ちいい。楽しいとかそういった感情は抱かなかったけれど、ただずっとこのままでいたいと思ってしまう。
「……結生」
「……ん?」
「……あそこまで、何メートル?」
「え?」
「あそこ。空と、海の間」
「地平線? ……うーん、ご、五万メートルとか?」
「……ふうん」
しばらく、ずっと二人で地平線をみて。太陽がてっぺんに昇ってきたころ、涙が俺に話しかけてきた。正直俺の返答は適当すぎるものだったけれど、涙は納得したような顔をしている。そして、ぐっと腕を伸ばす。地平線を、つかもうとしているかのように。
「……遠いね」
「そうだなあ」
「海、大きい」
「そりゃあな」
「……俺は、ちっちゃい」
涙のカーディガンが、ぱたぱたと風になぶられている。どこか、さっきまでとは違う声色に、俺は思わず息を呑む。
「……ふ、」
「……涙、」
涙の瞳から、なみだが溢れ出した。思わずギョッとしたけれど、やっぱり何かが違う。真っ直ぐに地平線を見据え、その瞳から流れるなみだは、綺麗だ。
「……ばかみたい」
「え……?」
「こんなに苦しいのにって思っていたのに、俺ってこんなに小さい。海ってこんなに大きくて、俺の苦しみなんて、すごくちっぽけ」
涙の声が、漣の囁きに溶けてゆく。青く、手を伸ばせば届きそうな空に、飛んで行く。
「小さいって、でも、辛くて、どうしたらいいのか、わからない。ばかばかしいって思うのに、こわい」
――ああ、そうだ。
海に比べたら、悩みなんてたった170センチ程度の大きさの肉体のなかで、渦巻いているだけ。広大な海を目の当たりにすると、それを痛感する。でも、だからといって悩みを吹っ切れるほど人は強くないし。それなら、俺ができるのは。
「……!」
側に、いてあげること。
抱きしめて、強く抱きしめると、涙は息を呑んだ。俺はさらに、腕に力をこめた。
「……涙。俺の側にいろ」
「……、うん」
堪えるように泣いていた、涙。それが、急に涙腺が決壊したように、大泣きを始めた。声をあげて、それはまるで子供のように。
ずっと、涙を抱きしめていた。泣き止むまで、ずっと。潮風のなかそうしていると、一つになったような錯覚を覚えた。
ぼろぼろだった涙は、こうして抱きしめると、暖かい。
「……大丈夫、涙。俺と一緒に、強くなろう」
いつか、涙が再び海を見た時に。笑ってくれる、そんな日を。俺は、願った。
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