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「――どうぞ」  日が傾き始めた頃。俺たちが向かった先は――涙の家。田舎の道端にひっそりとたっている空き家のような雰囲気を持った、古いアパート。何度か涙に「家に行っていい?」と訪ねても頑なに拒んでいたけれど、初めて今日、俺を連れて来てくれた。 ――全部、見て欲しいのだという。 「今日は――たぶん、あの人は帰ってこない」 「あの人?」 「母親」 「……ああ、」  軋む鉄の階段を昇って、芹澤家へ。扉を開けると、古い畳の匂いがした。  この部屋は、北向きなのだろうか。ほとんど光が入ってこなくて、まだ夜ではないというのに薄暗い。俺が少し戸惑っていると、涙が促してきたから畳の上に座った。 「……びっくりした? 今時、こんなに汚い家があるとは、思わなかったよね」 「いや……」 「ねえ、結生」  汚い、暗い――それよりも俺が目のやり場に困ったのは、部屋の中に散らばる女物の服や下着、それから化粧道具だ。結構強い香水の匂いなんかもして、この部屋とは酷く不釣り合い。それが余計に、……なんだか、言いようのない息苦しさを感じさせる。  そしてさらに、ぼろぼろの机に上に乗っているのが、薬の袋。たぶん使い切ったものもあるんだろうけれど、袋が机の上に山積みになっている。正直、それは怖くて直視することができなかった。  涙は、そんな俺の視線に気付いたんだと思う。困ったように首をかしげて、俺を見つめてきた。 「……引いてない?」 「え……?」 「まだ、引いてない? 結生……」  怯えるような、その視線。涙は、全て見て欲しいと俺をこの家に誘った。この家――今まで涙が過ごしてきた、この家をみて、まだ俺が涙のことを嫌いになっていないか、涙は確認したいんだと思う。  もちろん――俺はこれくらいで、涙を嫌いになったりしない。むしろ、家がどうあっても俺が涙を嫌う理由がない。 「――好きだよ、涙」 「……、」  その気持ちを、言葉にした。そうすると涙は、ぐ、と唇を噛んで、なみだを流す。 「……おれは、」  よろ、と俺に近づいてきて、俺の胸に頭を押し付ける。震える手で俺の手を掴むと、声をあげながら泣いて、そして、絞り出すように、言う。 「……自分勝手で、……自分のことしか考えられなくて、人の気持ちを考えられなくて、……話すことが苦手で、優しい言葉も言えなくて、……結生のこと、傷つけて……たくさん、傷つけて……」 「……涙、」 「……最低な、人間で……結生、ごめんなさい、……たくさん傷つけて、ごめんなさい……」  涙が、顔をあげる。なみだでぐしゃぐしゃの顔で俺を見て、そして、がちがちと震える口で、続けた。 「……結生、……俺、……まだ、……はぁ、……う、……」 「……涙、……がんばれ、涙」 「……ぁ、……す、……好きで、……結生のこと、好きでも、いいですか」  言い終わった瞬間に、涙が慌てて口を塞ぐ。そして、がくがくと震えながら、身体を縮こませた。全身に、鳥肌がたっていて、目にはなみだが浮かんでいる。過呼吸ぎみになったところで、吐きそうなんだな、と俺は悟った。 ――そして、ようやく理解する。涙は、「好き」と言いたくなかったのではなく、言えなかったのだと。臆病で、自分が嫌いで……だから、「好き」と伝えることすらも怖かったのだと。こうして「好き」と口にすると、あまりの恐怖に吐き気を覚えるほどに。 「――涙。もっと、好きって言って。俺、涙に好きでいてほしい。俺も、涙のこと好きだから。涙、好きだよ。涙……」  それでも、涙は「好き」と言ってくれた。俺は、嬉しくて、嬉しくて……泣いてしまった。  俺から逃げようとした涙を、引き寄せる。ふるふると頭を振った涙の背中を、さする。俺の胸で吐くのが嫌だったのか涙は必死に逃げようとしていたけれど、俺は逃がさなかった。とうとう涙は俺に抱きしめられながら吐いてしまって、でも、それでも俺は涙のことを離さなかった。はあはあと辛そうに呼吸をしながら、そして嗚咽をあげて泣きながら、涙は、言う。 「――好き、……結生、……好き、……すき……」  う、と涙がえづく。そして、次の瞬間、指と指の隙間から胃液がこぼれ落ちた。何も食べていなかったせいか涙が吐いてしまったのは胃液のみ。とうとう吐いてしまったと悲しそうな泣き声をあげながら吐き続ける涙を、俺は離さなかった。  俺の着ている服は、涙の吐いた胃液で濡れる。俺はそんなことは気にしないで、涙の背中をさすり抱きしめ続けた。 「は、ぁ……すき、……結生、好き、……う、ぉえ、……好き、」 「うん。俺も好き。涙。大好き」  吐いて、しばらくして落ち着いて、「好き」と言ってくれてまた吐いて。それを繰り返す涙が、たまらなく愛おしかった。しだいに自分の口元を抑えていた涙の手が俺の背に回ってきて、俺たちは抱き合いながら、お互いに「好き」と言い続けた。  本当に気持ちがつながったような、そんな気がした。涙が俺に隠し続けてきたことを見せてくれて、そしてこんなふうになりながら「好き」と言ってくれて。 「ゆき……」  ああ、本当に愛している。  俺を見上げてきた涙の瞳は、相変わらず綺麗だった。空が溶けたようだとも、星をつめた宝箱のようだとも思ったことのある、その瞳。でもたくさんの想いが溶け出した涙のなみだは、空の蒼よりも星よりも綺麗なものだと思う。  俺は、そんな涙のなみだに恋をして、そして今はそんななみだを流す涙のことを愛している。  唇を拭ってやって、キスをした。涙は幸せそうに目を閉じて、俺のキスに応えてくれた。

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