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 学校へ行くのは、ひどく億劫だった。  治療の成果があったのかなかったのか、俺は癇癪を起こしたりパニックになったりということはなくなった。無事、退院できたけれど……誰とも、会いたくない。自分自身のことがわからなくなってしまっていたし、今まで俺のしてきたことが全て不正解だったのではという思いに駆られると、築いてきた人間関係までもが不正解だったのでは、と考え始めてしまったからだ。  あたまがおかしい人が、憎い。じゃあ涙のことまで憎いのか。いや、なぜ俺は涙が憎い? 涙とは……親友だったのに。 「春原先輩~! 春原先輩! 退院おめでとうございます!」  学校に到着して、はじめに話しかけてきたのは逢見谷だった。きらきらとした目をしながら俺に駆け寄ってくる。やはり、俺が精神病院に入院していたことなんて、知らないのだろう。 「今日、放課後は誰かと一緒に過ごしますか? よければ俺と退院祝いしませんか?」 「……逢見谷、もう止めよう」 「えっ……?」  純粋無垢な逢見谷の視線が、痛い。俺は逃げるようにして、逢見谷に背を向ける。 「先輩……やめるって、どういうことですか……?」 「……もう、俺の後ろをついてくるのやめろって言ってんの」 「え……?」  逢見谷は、俺に執心している。それは、俺の目から見ても明らかだった。逢見谷は俺にあこがれ、俺の言うことならなんでも正しいと盲信し、なんでも言うことを聞く。俺は、そんな逢見谷の異常な執心を利用して、涙を陥れようとしていた。でも……もう、そんなのはやめだ。そんなことをする気になれない、なにもしたくない。何より……俺は、逢見谷が失望するような人間だから。 「君が思っているほど、大層な人間じゃないんだよ、俺は」 「え……で、でも……先輩は、頭が良くて、かっこよくて……優しくて。俺の、あこがれの先輩ですよ……」 「だから、俺は頭もオカシイし、ダサいし、クズな人間なんだって。俺に夢を見るのはやめろ」  逢見谷は、初めて会った時から俺に猛アタックしてきた。まずは顔に惚れたらしく、続いて学力に惚れたらしく、続いて中身に惚れたらしく。なにもかも、上っ面の俺の要素に惚れていた。惚れて、惚れて、心底惚れたから。俺のどんなに非道な命令でも、喜んで聞いた。なんの、疑問を抱くこともなく。恋は盲目を、見事に体言してみせたのだ。  そんな、逢見谷だから。本当の俺を知ったなら、絶望するだろう。なんてしょうもない人間について回っていたのだと、ひどく後悔すると思う。だから俺は、はやいところ逢見谷との関係を断ちたいと思った。奴が、ショックのあまり壊れてしまう前に。 「……別に俺、恋に恋していたわけじゃないですよ」 「……は?」 「春原先輩だから、好きになったんです。あこがれていた、って……なにも、夢をみていたわけじゃありません。どんな先輩でも、俺は好きだった」  ……それなのに。逢見谷は、食い下がろうとはしなかった。ぐい、と俺に詰め寄って、そのきらきらとした瞳で俺を見つめてくる。涙とは違う、その輝き。どちらかといえば苦手な光り方。あまりに強すぎる俺への敬愛が、かえって俺を苦しめる……そんな光り方だ。 「俺は、普通の人生を送ってきた。恋だってしてきたし、友達もいっぱいいたし。でも……なにか、足りなかった。先輩に逢って、初めて感じたんです。まだまだ俺の人生は、広がっているって。こんなに一人の人を好きになれるんだから、俺はまだまだいけるんだって……」 「……自分が奴隷扱いされているってわかってる奴が言う言葉かねえ。俺のことが好き? よく俺に駒みたいにされてそんなこと言えるね、君」 「普通に考えたら、屈辱的な扱いをされているなんてわかっていますよ。でも、そんな風に扱われることすら、うれしかった。それくらいに俺は、春原先輩のことが好きだった」 「……頭おかしくない? 君」  正直、逢見谷がここまで俺を慕う理由がわからない。まあ、一目惚れという奴だろうから、そんなに深く追求するものでもないけれど。それでも、俺と逢見谷ははっきり言って異常な関係だったのに、こんなにも純粋な想いを抱いているということが、俺は怖かった。自分の穢さと、逢見谷の純白のコントラストが、キツかった。  ……見るなよ。本当に、俺のことなんてみないでくれ。惨めになるから。もう、やめてくれ 「……先輩。どうしたんですか、急にこんなことを言うなんて。何かあったんですか? らしくないですよ」 「――らしいとからしくないとか、おまえに俺のなにがわかるんだよ! 俺は……俺は、病院にぶち込まれたんだぞ! 涙に怪我をさせたのが親にばれて、自分の保身ばかり考えるあのクソ親に、病院にいれられたんだ! おまえに、この惨めさがわかるのか!」  頭のなかが、ぐちゃぐちゃになった。逢見谷が鬱陶しい、恐ろしい。精神病院に入る前の俺を盲信する、逢見谷。彼に今の俺を否定された瞬間、今の俺は価値がないのだと、決定されてしまうような気がした。  なによりも疎んだ、精神病。それに俺自身がなってしまった。こんな俺は、必要とされる人間なのだろうか。俺自身が、自分のことをわからなくなってしまったというのに。 「春原先輩……!?」  俺は逢見谷に背を向けて、逃げ出した。  もうすべての人の世界から、消えてしまいたかった。

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