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ビルはたぶん、使われていないもの。エレベーターは動かなかったから、階段を駆け上っていった。もう足が動かなくて一段蹴るだけでも大変だったけれど、それでも止まることなく俺は屋上までたどり着く。
重い、鉄の扉。それを壊すような勢いで、開ける。
その先には。
「……っ、ゆう……!?」
広がる、コンクリートでできた屋上。夜の空。錆びたフェンスに手をついてこちらに背を向けている……ゆうがいた。
ゆうは俺に気付いたのか、ゆっくりと振り返る。驚いた様子もなく、何かを悟ったような顔で。俺を、見定めた。
「……来てくれたんだ」
「……ゆう?」
「いや、俺、涙が来ることを見越してここにいるんじゃないよ。本当に還りたくて、ここまできた。けれど、このフェンスを乗り越えようとしたとき――君が来るような、そんな予感がした」
ゆっくり、ゆうに近づいてゆく。あんまり慌てて駆け寄れば、ゆうがフェンスを乗り越えてしまうんじゃないかと思ったからだ。
ゆうは俺を見つめて、ふっと笑った。その表情には、魂がこもっていない。虚ろな目、青白い肌。かさかさの唇。あまりにも弱った様子のゆうに、心臓がドキリと嫌な感じに跳ねる。
「ねえ、涙。君さ、今、嗤ってるでしょ」
「え?」
「……君を裏切った俺が、こんな風になって……嘲笑ってる……そうじゃないの? 精神病院にまでぶちこまれて……ざまあみろって思ってるでしょ」
「そ、そんなこと……」
ゆうの言葉に、俺はぐっと言葉につまる。
完全には、否定できなかった。
まさか、死んで欲しいなんては思っていない。入院したことだって、ゆうにとっては辛いことだったろうと思っている。けれど、ゆうのことを恨んでいないのかと言えば、そうではなかった。
俺のトラウマを知りながら、俺を集団レイプしようとしたこと。中学の頃、俺と一緒にいながら裏で俺を苛める人たちに手を貸していたこと。俺はこれらのことをそう簡単に許すつもりはない。正直、ゆうのことが憎いとすら、思っている。だから、ゆうの言葉を否定しきることができなかった。
……けれど。
ただ嫌いならこんなところまでは来ていない。
「……なんでこんな風になっちゃっただろうって、最近はそんなことを考えるんだ。だって、俺、おかしいじゃん。涙はさ、たしかに乱暴な言葉を言うこともあるけれど……涙は、優しかったのに。人の彼女をレイプまでした俺の兄さんとは全く違うって、そんなこと少し考えればわかることなのに、なぜか俺は涙のことを恨んでいた。いつから俺はおかしくなっていたんだろうって考えると、死にたくなる」
「……ゆう、」
「俺の兄さんが狂っていたから? 俺に彼女がいたから? 俺が涙と出会っていたから? どこから俺はおかしくなっていたんだろう。どうしていれば、君を傷つけていなかったんだろう、……そんなことを、思ってる」
俺は今にもフェンスの向こうへ行ってしまいそうなゆうの手を掴みたくて、一歩足を進める。けれど、また踏みとどまる。
ゆう、最後に会ったときとは変わっている。俺のことを、精神病だからといって糾弾することがなくなっている。だからこそ止めなくてはと思うけれど、だからこそ怖い。ゆうの急激な変化は、ゆうがかなり不安定になっている証拠だから。かける言葉にも迷って、下手なことを言えばそれがゆうの死へつながりそうな気がして。俺は何もすることができない。
「……俺はね、昔。本気で君のことが好きだったよ」
「……え」
「……本当に君のことを、大切に思っていた。だから、俺は今、死ぬんだ。君を傷つけた自分を、俺が許せない。たとえ、与えられた狂気のせいだとしても。葉が酷い死に方をしたからって、それを理由にしたとしても」
ゆら、とゆうの体が揺れた。そして、一歩、後退。
俺は咄嗟に走り出す。言葉など見つからない、止める術など知らない、けれどこのまま傍観していたら、ゆうは死ぬ。それが恐ろしくて、俺は本能的に走りだした。
びく、と震えたゆうは。やはり、慌てたようにしてフェンスを掴んだ。それほど高さのないフェンスは軽くよじ登ることができそうで、俺は重い脚で必死に走る。
「ゆう――!」
ゆうが登りきる前に間に合って、俺は思い切りゆうの体を掴んでフェンスから引きはがした。自分でも何をしているのかわからなくて、ただがむしゃらに。
胸のなかで暴走する感情は、自分でも何者なのかわからない。
憎い、憎い、死なないで、憎い、君のことを俺は――
「放せ!」
「ふざけんな、死ぬのなんて、絶対に許さないからな!」
抵抗するゆうの胸ぐらを掴んで、フェンスに背中を叩きつける。そして、俺は。
全力でゆうの頬を、殴った。
「……ッ!?」
「勝手に、死ぬとか……ふざけんなよ、ふざけんな!」
驚いた顔をしたゆうの両脇にガンッと手をついて、俺はゆうに詰め寄った。唇の端を切ってしまって血を流してしまったゆうを見て俺はようやく冷静を取り戻したけれど、だからといって引き下がれない。整理もできていないこみ上げてくる想いをぶちまけるようにして、俺は叫ぶ。
「そうだよ……俺は、ゆうにされたことにすごく傷ついた! 俺がゆうに何をしたんだよ、はっきり言ってゆうのお兄さんと俺は全く関係ない! 俺が精神を病んでるからなんだよ、そんなことでゆうにあんなことをされる理由になるのか! 人をなんだと思ってんだ!」
「だったら……殺せよ、ここから突き落とせ! 俺が憎いんだろ、殺せよ!」
「黙れ! 死んで逃げようとするな! 俺にあんなことをして、死ねると思うな!」
フェンスを、思い切り拳で叩く。錆びたフェンスには細かい凹凸があって俺の拳からは血が出てきたけれど、こんなものは痛くない。だって、ずっと、ずっと、心が痛かった。
大好きなゆうに裏切られたのが、すごく、つらかった。
そう、俺は。
ゆうのことが大好きだった。
「……俺も、ゆうのことが本当に好きだったんだよ……ゆうのことが本当に憎いのに、大好きだから……どうしたらいいのか、わからない……」
「……、」
なみだが、でてくる。ぼろ、ぼろ、と大粒のなみだ。
虚を突かれたような顔をしたゆう。ぽかんとして動かない彼の肩に、俺はがくりと頭を乗せた。本当にわけがわからなくなって、ただ、痩せた彼の体に触れたくなった。
「……涙」
そっと、ゆうの手が俺の背に触れた。
そして。
ぎゅっ、と強く抱きしめられる。
「……俺、」
「……ゆう?」
「……俺、初めて涙のことを見たとき。そのときから、涙のことを好きだった」
「……、」
「仲良くなれて、嬉しかった。涙が俺の側にいてくれて、嬉しかった。……君と友達でいれて、幸せだった」
ぽつぽつとゆうの口からこぼれる言葉が、やたらと鮮明に聞こえた。
俺はゆっくりとフェンスから手を離して……そして、ゆうの背に、手を回す。
「……なんで、かな……ずっと、友達でいたかったのに……なんで、俺……おかしくなっちゃったんだろう……俺……ずっと、……君の側に、いたかったのに……」
「……ゆう、」
「ごめんなさい……涙、ごめん。ごめん……」
ごめん、なんて。そんな言葉で許せるわけない。
そう、思うけれど。
でも、俺は知っている。心が壊れてしまったとき、自分自身の行動は制御できなくなる。そして、心は突然壊れてしまう。自分でも気付かないうちに、大切な人を傷つけてしまうのだと。……知っている。
でも、何よりも俺が知っているのは、ゆうは、本当に俺のことを好きでいてくれたのだということ。あのころの思い出を、俺は疑わない。
「……友達に戻ろうっては、言わない。けれど、ゆう」
「……うん、」
ゆうも、そして俺も。
あのころの思い出を、眩しく思っていた。戻れない過去をずっと大切に心の奥にしまっていた。
それを知ることができただけで、俺は、いい。過去の俺が、哀しむことがないのなら。
「――……俺の側で、生きていて」
壊れてしまった関係を修復するのはきっと、そう簡単にはできないだろう。
だから俺が望むのはただ一つ。
大切な親友に、生きていて欲しいということ。
声をあげて泣いたゆうの背を、強く抱く。俺は泣いてはいけないのだと、強く唇をかみしめて。彼への憎しみと友愛、それらがせめぎ合う自分の心へ願った。
――いつか、彼と友達に戻れますように、と。
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