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 足が、重かった。  あの人のいるとわかっている家に帰るのは、怖かった。  日のあたらない道を歩いて行けば、外だというのにカビのような臭いがする。それは錯覚なのかもしれないけれど、そう感じるほどに俺のアパートの周囲は薄暗くしめっぽい。日が当たらないせいで蒸発しきれなかった数日前にできた水たまりを踏んで、俺たちはようやく、アパートにたどり着く。 「涙、」 「……だいじょうぶ」  階段の上に、俺の部屋。上を見上げれば、日の落ちた空が歪んで見えた。    老朽化の激しい階段を上っていくと、大げさなくらいに音が響く。一段昇ることすらも気が重くて、階段を昇りきるのに恐ろしいほどに体力を奪われた。二階にたどり着いたときにはありえないくらいに息がきれていて、結生が心配そうに顔を覗いていくる。  けれど、俺はそのまま進んだ。結生が隣にいる今、進めなかったらいつ進めるというのだろう。  奥にある、俺の部屋。ひとつひとつ、扉を通りすぎていき、近づいてゆく。奇声をあげる隣人の部屋を通り過ぎれば、ようやく。目的地。  ドアノブにふれると、錆のざらつきと、ひんやりとした感覚が手のひらに伝わってくる。急に力が抜けてドアノブを回すことが億劫になり、何度も握ったり離したりを繰り返していると、結生が俺の手の上に、手のひらを重ねてきた。何も言わず、そっと。  結生の優しい視線が、俺の頬に触れた。俺は、深呼吸をして、ぎゅっとドアノブを掴みーー扉を開ける。 「あ、――」  扉を開けた瞬間に――なんと、あの人がいた。  派手な化粧をした、ぎらぎらとした格好で。彼女は丁度今外にでるところだったらしく、靴を履こうとしていた。 「……涙、おかえり」 「……っ」  まさか扉を開けた瞬間にいるとは思っていなかった俺は、一瞬で動揺してしまった。言葉を用意していたというわけでもないけれど、何もかもが頭から吹っ飛んで何もはなせなくなって、その場に立ち尽くしてしまう。彼女は黙っている俺を不思議がることもなく、哀しそうに笑って、両足をヒールの高い靴で飾ってしまった。 「……ごめんね、涙。今、でるからね」 「……、あ、……あの、」  彼女は俺に申し訳なさそうに笑いかけると、そのまま俺の横を通り過ぎてしまう。いつもの、俺の態度のせいだろう。俺が彼女をいつも疎んでいたから、一刻も早く俺の目の前から消えてあげないと、そう思っているのだ。  呼び止めようと声を発したけれど、それはヒールの音にかき消され、彼女に届かない。彼女はそのまま玄関から出てしまって、もう俺には彼女を呼び止める気力が残らなかった。 「――あの」  そのときだ。  結生が、彼女に声をかけた。  俺はびっくりして振り向いてしまって、結生の顔を見つめる。結生はーー  まるで俺に向けるような、優しい笑顔で。彼女に言ったのだ。 「……藤堂です。時々おじゃましています」  ……びっくりしてしまった。そんなこと、彼女に言ってどうするんだろうと。  けれど。彼女は、結生の自己紹介を聞くと、はじめこそは驚いたように目をぱちぱちと瞬かせていたが、すぐに嬉しそうに笑って。 「涙の、彼氏さん。いつも、ありがとう」  そう言ったのだった。  もう時間がなかったのだろうか、彼女は慌てたように階段を下りて消えてしまったけれど、彼女の後ろ姿はどこかいつもと違っていた。長い巻き髪が揺れる様子は、まるで踊っているようだった。 「あっ、そっか、涙のお母さんって俺が涙と付き合っているの知ってるんだっけ」 「……前に、キスしてるとこ、……見られた、かも」 「ああ、そうだそうだ。見られたんだった」  呆然と、よく状況がつかめていない俺に、結生が笑いかける。何が起こったのかわからない、どうして結生がそんなに優しそうな顔をしているのかもわからない、どうして彼女があんなに嬉しそうな顔をしていたのかもわからない。  彼女と話すことができなかった、その悔しさがあったのに。結生と彼女のやりとりに対する疑問がいっぱいで、俺は混乱するだけ混乱してしまった。ぽかんとるすることしかできないでいる俺に結生は笑いかけてきて、「中にはいろう」そう言ってくれた。

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