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朝の東京湾は、寒い。遠くに船が見えて、鳥の鳴き声が聞こえて。朝なんていってもまだまだ暗い空には、夜の名残が残っている。
俺と結生は、潮風のあたるところまで、手を繋いで歩いてきた。ほとんど会話はなくて、「寒いね」とか「まだ暗いね」とか、そんな言葉をぽつぽつと交わしていただけだった。
ようやく会話らしい会話をしたのは、ちょっと立ち止まって海を眺めた時。空と海の色があんまり変わらないものだからぼやけてしまっている地平線が、どうにもおかしくて。なんとなく立ち止まって、俺たちは地平線に問いかけるようにして、言葉を発していた。
「あの空は、夜空っていうのかな」
「……時間だけみれば、もう朝だけど」
「いや、季節を考えれば、まだ夜かもしれない」
「……まあ。太陽じゃなくて月がでているから、夜かもしれない」
「夜の定義ってなんだろうな?」
「……日が昇っているか、昇っていないか?」
「それを定義とするなら、まだ、夜だ」
「……そっか」
夜と、朝。その変わり目に、俺は立っている。静かな空の色、波の声。ざわめきたつ俺の心に、すうっと染みこんでいった。
「――……」
さあ、と海風が騒ぐ。なんとなく、呼ばれたような気がして俺は振り向いて――
「……ここで、待っていて。結生」
遠くに見えた、白いシャツを着た「彼女」を、見据えた。
ゆっくり、海岸まで歩いて行って、彼女がくるのを待つ。
「――涙」
潮の匂いが、強い。
俺の名前を呼ぶ声は、カモメの鳴き声と重なった。高いヒールの靴で歩きづらそうに向かってくる彼女は、俺と目が合うと、嬉しそうに微笑んだ。
「おはよう、涙」
「……おはよう」
彼女が、俺の前に立つ。俺の心臓は、馬鹿みたいに激しく高鳴っていた。彼女は優しい顔で俺を見ているというのに、今までのなによりも恐ろしく感じてしまう。
彼女の意志ではないけれど、彼女が原因で俺はいじめられるようになった。色を失った。だから、彼女は俺のトラウマの全ての元凶――そんな意識が根付いた俺の頭は、反射的に彼女を拒絶する。
それではいけないと、本当は知っている。それでも真実と戦う勇気が、今までの俺にはなかった。けれど、もう、俺は逃げ出さない。俺の背中を押す潮風と、結生の視線。それから、俺を迎え入れてくれる、貴女の瞳。
「……ききたい、ことがあるんだ」
「ききたいこと?」
彼女と何を話すかは、決めてこなかった。けれど、この波の音を聞いていると、自然と言葉がでてくる。
騒ぐ心を静め、深い記憶に眠る彼女の声を呼び起こして。俺は、問う。
「どうして、俺を「涙」って名前にしたの?」
俺の名前は、変わった名前だと思う。きっと、なかなか同じ名前の人には出逢わないだろう。だからこそ、この名前にどんな意味があるのかと、彼女の言葉で知りたいのだ。
彼女は、俺の問を聞いて、目をぱちくちと瞬かせる。ちょっと疲れ気味の瞳の目尻には小さなしわができていて歳を感じさせるけれど、そのときの彼女はどこか幼く見えた。
彼女は、微笑む。そして、俺の瞳を見つめ――そして、遠くにいる、結生を見て。
「……あなたに、幸せになって欲しいから」
「……なみだ、って漢字なのに?」
「……私は馬鹿だけど、知っていることがあるの。なみだって、人間が幸せになるためにあるものだってこと。哀しくてたまらないときに、人間はなみだを流して哀しみを流せるの。辛くなったときに、なみだが心を落ち着けてくれるのよ」
「……、」
「それから……なみだは、幸せでたまらないときにもでてくる。私は、そのなみだを知らなかった。そんななみだを流したことがなかった。だから……私の子供には、幸せでなみだを流すような人生を歩んで欲しいって、そう思ったの」
俺は、彼女の視線を追う。遠くで俺たちの視線に気付いた結生が、きょとんとした顔をしているのが、可笑しい。
「……涙が幸せそうで、私、本当に嬉しい」
彼女は結生を見て、ふふ、と笑った。
――彼女のなかには、結生と俺では「男同士だから」なんてそんなこと、どうでもいいのだろう。ただ、俺が本当に好きな人がいて、そして、俺を本当に愛してくれる人がいて。それが、嬉しいんだと思う。だから、ただ、本当に嬉しそうに、笑っている。
俺はそれを見て、今までのなにもかもが、砂山が風に吹き消されていくように消えて行くのを感じた。心を縛り付ける、しがらみがとけてゆくように感じた。
「あの子は、なんていう名前なの?」
「……結生」
「……ゆき、君。私も、ゆき君って呼んでもいいかな?」
俺は、自分の名前にふさわしい人生を、歩んでいけるだろうか。それを自分に問いかければ、答えは結生と一緒にいた時間が答えてくれるような気がした。押し込んだ哀しみに気付かせてくれた、結生。泣くことを許してくれた、結生。俺に、幸せを教えてくれた、結生。
「その前に、……」
彼女――いや、……
「……その前に、……、……、俺、……」
「……、涙、」
「……もう一度、……あなたを、……、……お母さんって、呼んでも、いいですか」
――俺の、お母さんが望んだ、人生を。俺は、結生と一緒に、歩き出し始めたところだ。きっと、この先、お母さんが願ってくれた人生に、俺は向かっていくだろう。
「何言ってるの。私は、ずっと、ずっと……涙のお母さんでしょ」
へへ、と笑ったお母さんの瞳から、なみだがこぼれ落ちる。
ああ、そういえば貴女は、幸せのなみだを知らないと言っていた。そのなみだは、なんのなみだなんですか?
「泣いちゃった。涙のおかげで、私も、幸せになれたみたい」
気付けば俺の瞳からも、なみだがこぼれていた。いつもなら、迷わず結生の胸に飛び込んだだろう。
けれど……今だけは。貴女の胸で、子供のように、泣いてみたかった。
漣の音が、重なる俺たちの影を祝福する。影は、濃くなってゆく――夜明け、だ。暗闇は、夜明けの太陽に溶けていき、そして……彼方へと、消えていった。
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