243 / 250

 今日は、涙の家に行くことになった。最近、涙の家に行く頻度が上がってきている。涙の自分の家に対する嫌悪感が薄れてきた、というのが大きいかもしれない。涙が自分から「うちにくる?」と聞いてくることが多くなったのだ。 「今日……お母さんは?」 「お昼はパートで夜はキャバだったかなあ……」 「……相変わらず忙しいな」 「うーん、まあ、でも……前みたいにセックスするような仕事はしなくなったから、精神的に楽みたいだよ。お薬の量、減ってるし」 「ほー。そりゃいいこと……なのか?」 「前よりは随分とマシだよ」 「それはそうだ」  涙の家は、最近はずいぶんと片付いている。前までは服が脱ぎ散らかしてあったり、カビの臭いがしたりとそういったことが多かったが、随分とスッキリした。もともと古いアパートだから、部屋の古さ自体は変えようがないが、きちんと掃除されていて、部屋の中に立ち込めていた鬱屈とした雰囲気はなくなっている。  本当に、涙のお母さんの精神が、安定してきているのだろう。それが、部屋を見ただけで感じとれる。涙がぐっと大人っぽくなったのも、それが影響しているのかもしれない。 「あれ。なんか壁に、増えてね?」 「ん?」  涙の部屋に入って、今日は何か違和感を覚えた。いつもはなかったような気がするものが、ある。 「……海の写真じゃん」  壁に、何枚か海の写真が貼ってあったのだ。少し色褪せたもの。たしか今まではこういったものは貼っていなかった。 「ああ、それ。お母さんのだよ」 「ミチコさんの?」 「憧れの海なんだって。昔もらった写真らしいけれど」  俺は壁に近づいていって、写真を見てみた。色褪せてはいるけれど、真っ青の綺麗な海だ。左端に印字されている日付を見てみると、今から20年位前のもの。  俺は東京湾でのミチコさんを思い出して、なんとなく、「憧れの海」という言葉に納得した。ミチコさんはきっと、海というものが好きなんだと思う。それはきっと俺が海に対して好きというのとは違うもので、人の世界で揉まれてきた彼女が、地球で生まれた生き物としての幸福をまるごと享受できる、そんな広大な幸福感があるから。涙と、少し似ている。貯めこんだ苦しさを浄化できる、そんな大きな優しさ惹かれているのだろう。俺が海でミチコさんを見た時の印象は、それだった。潮風に全身を委ね、そのまま溶けていきそうな……そんな雰囲気があったから。  そして、そんなことを考えて――俺は、ふと思う。 「……涙。ちなみにさ、なんで大学、沖縄にしたの?」 「え?」 「っていうか、一人で沖縄行くの?」 「……、」  涙が、進学先を沖縄にした理由。なぜ涙が東京から遠く離れたところを選んでそれを俺に黙っていたのか、ということは置いておいて、「沖縄」を選んだ理由を俺は知りたい。……まあ、検討はつき始めたのだけれど。涙の表情を見て、俺の予想はおそらく正解であると、確信した。 「……沖縄は、お母さんと一緒にいくよ。そこで二人で暮らすんだ」 「沖縄に行きたいっていったのも、ミチコさん?」 「いや……沖縄の綺麗な海を見たい、とはお母さんが言ったんだ。でも、そこに引っ越そうって提案したのは、俺」 「その提案、ミチコさんはすぐにのったの?」 「まさか。沖縄に住むこと自体は賛成だったみたいだけどね。結生と離れることになるよ、って反対してきた」  やはり、「沖縄」を選択したのは海の近くで住みたいからだ。涙も、海が好きだからミチコさんの発言をきっかけに進学先に沖縄を選んだのだろう。  まあ――「東京から離れたい」理由とはまた違うのだろうけど。  俺は、わかっていた。涙が沖縄を進学先にした理由は、2つあるのだと。一つは、海の近くに住みたいから。そしてもう一つが、この場所から離れたいから、だ。涙が俺に隠していたかったのが、後者のほう。そして俺が本当に知りたいのも、後者のほう。けれどそれは――涙から話してくれるまで、俺は聞いてはいけない。 「……涙は、それに……なんて答えたの」  東京とは、涙にとってどんな場所なのか。昔の涙にとっては、怖いクラスメートが犇めいている場所、だったかもしれない。けれど今の涙にとって、東京という場所が示すのは――……「俺がいる場所」。涙が東京から離れようとしている理由を、俺はもう一つの意味で解釈していた。涙は、……涙は、俺から、離れたいのではないかと。  だから、この問を投げかけるのは怖かった。もしかしたら核心に近づいてしまうのではないかと思って。きっと、自分では気づかないくらいに、声は僅かに震えていただろう。   「……ねえ、結生」  涙の声を聞いて、俺は小さく震えた。涙のことを信じているのに、情けないにもほどがある。けれど、その予測が一番正解に近く、そして恐ろしいものであったから……しかたのないことだ。   「……今までで、一番酷いわがままを聞いて欲しい」  涙の瞳が、俺を捉える。俺が焦がれ続けた瞳は、透き通っていて、相変わらず美しい。嘘のついていないその瞳は、これから涙の言う言葉の重みを映している。  俺は怖くなったが、きっと涙自身も言うのが怖いに違いない。息の詰まるような感覚を覚えて、でも、俺は涙の目を見つめ返す。そして、そっと、涙の手を握った。 「――俺、結生の傍から、離れたい」  ――重く、涙の言葉が俺にのしかかる。まさか、と思っていた言葉を涙の口から聞いてしまったから、俺は闇に堕ちていくような、そんな絶望を覚えた。  涙を握る手に、力が入らない。俺は、逃げるようにして手を引っ込めようとした。しかし。  ――涙が、そんな俺の手を、つかむ。 「別れたいっていうことじゃない」 「……え?」 「――だから、わがままなんだ。距離だけを、置かせて欲しい」 「……それ、どういう、こと」  俺は、涙の意図することがわからなくて、涙の心を探るように涙を見つめた。そうすれば今度は、涙が怯えたように瞳を震わせる。今の俺は、涙を怖がらせるような顔をしているだろうか。でも、……感情を制御できそうにない。唐突な涙の言葉に、俺の心は追いつくことができていない。 「……。もっと、落ち着いたら話をしようって思ってたんだけど……黙っていても、結生のことを不安にさせるだけ、だよね。ごめんね……これは、俺が……すごく、……考えて決めたことなんだ」 「……うん、」 「……初めに、言っておくね。本当に、結生に酷いこと、お願いすることになると思う」 「……ひどい、こと?」  俺の手をつかむ涙の手に、力が篭もる。手汗をかいているのか、じっとりと、熱い。涙の顔からは、あからさまな緊張がみてとれて、俺の方も釣られて息が苦しくなってきた。そもそも俺は、涙に言われることに恐怖を覚えているのだけれど。  涙以外の人を、好きになれそうにない。涙が俺の傍から離れていくというのが、本当に怖いから。 「……別れたくないんだ。結生のこと、好き。でも、……一回、結生から離れて一人になってみたい」 「……なんで?」 「……。結生に、依存するのが、……怖い」 「……、別に、いいよ。俺に依存すれば、……いいじゃん」  少し、涙の言いたいこと輪郭だけつかめてきたような気がする。けれど――俺は、恐怖が先行してまともな思考が働かなかった。涙と離れたくない、その想いばかりが先走ってしまったのである。いつも、涙のことを第一に考えていたはずなのに――今日はなぜか、気持ちが焦る。一瞬でも涙と別れる未来を描いてしまったせいで、落ち着いて考えることができなくなってしまったのだ。  涙は、俺の言葉に困ったような顔をした。当たり前だろう。「依存」なんて、いい意味で使う言葉じゃない。無理矢理にでも涙のことを繋ぎとめようとしている俺の焦りが、伝わってしまっている。  涙を困らせてはいけない――ちらりと顔を出す、俺の理性はそう言っている。 「……うん。ずっと、結生に愛され続けて、そばに居て……そんな風にできたら、俺はきっと幸せだと思う」 「じゃあ、なんで……?」 「……結生が、俺の全部を知っているから。俺がどんなに弱い人間で、どんなに脆い心を持っているか、知っているから。だから俺は結生に依存できない。俺が結生に依存したら、きっと――きっと、結生は、俺の存在がいつか、重荷に思う」 「そんなこと――……!」  自分に、「落ち着け」と言い聞かせた。けれど、それなのに。俺はつい、声を荒げてしまう。    涙の言葉を、呑み込みたくなかったからだ。  だって、また、自分を卑下するようなことを言うから。俺にとって涙が重い存在になるなんてこと、言うから。俺はそれに納得できなくて――けれど、どこかで涙の言葉に0ではない可能性を感じて。一瞬でも、涙の言葉を「正しい」と思った自分を否定したくて、俺は感情的に声を発してしまった。  涙は、そんな俺を諭すように笑う。その表情には、自分の否定がなかった。 「俺を支えなくちゃって、ずっと思っていたら……いつか、結生がだめになっちゃうでしょ。ううん、結生はそう思っていてくれるって、そう思うんだ。けどね、弱い人間を支え続けることって本当に苦しいよ」 「……べつに、俺は……涙のためなら、なんだって……」 「……ありがとう。そう思ってくれるの、すごく嬉しい。でも、俺が嫌だ。結生がずっと俺のためにって責任を背負い続けるのは、嫌だ。……結生と、対等になりたいんだ。一緒にいても、離れても、居心地のいい関係になりたい――君の、永遠でいたいから」  俺は、そっと涙の瞳の奥を覗く。いつか、なみだがきらきらとしているのが美しいと思ったその瞳。俺が焦がれた瞳。今、涙の瞳には、なみだは浮かんでいない。確かな光と強い想い、それだけがちりちりと紅炎のように燃えている。    ああ、綺麗だ――そう思った。 「強くなりたい。結生のために。結生と俺の、未来のために」  もう俺は、涙の言葉を否定しようと思わなかった。涙の想いを、きっちりと呑み込みことができたから。 「……おまえ、ほんと、変わったよな。かっこいいよ」  出逢った頃の涙を思い出すと、感慨深い。    過去の出来事から卑屈になり、性格が歪んでしまっていた涙。自分を嫌うあまりに俺と付き合いたがらなかった涙。付き合ってからも、自分も俺も信じられず不安を抱えていた涙。  本当に、変わった。俺は涙の力強い言葉に目眩を覚えるほどに感動していた。涙の言葉は、自分を肯定できる人間でなければ発することのできないもの。俺が思っていたよりもずっと強くなっていた涙に、俺は痺れるくらいに嬉しくなった。 「いいよ。じゃあ、俺、待ってる。涙が俺とまた一緒にいようって思える日を、待ってる」 「――……結生。ありがとう」 「迎えに来てよ、王子様。かっこいい男になってさ、俺のこと骨抜きにして」 「……――」  窓から差し込む光。壁に貼られた、海の写真。漣の幻聴が、聞こえてくる。  一瞬瞼を伏せて、もう一度開いた時。そこには、過去の君はいなかった。 「――迎えにいくよ、結生。愛しているよ。ずっと、ずっと。」  

ともだちにシェアしよう!