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「おはよう、涙」 「……おはよ」  卒業生は、在学生よりも遅れての登校。華やかで寂しい空気の漂う校舎を、俺は少し早い時間に訪れていた。  向かった先は、生徒会室。生徒会長として大きな活躍をしたわけでもないし、俺の青春が生徒会にあったかといえば微妙なところではあるけれど、なんとなく、一番にここに来てしまった。早朝に登校してこの生徒会室に来るっていう生活を懐かしく思ったのだ。  静かな生徒会室には――ゆうが居た。卒業式の日に一番に会ったのがゆうっていうのは、なんとなく、嬉しい。入学式の日も……ゆうと一緒だった。その頃の俺は、今の俺とは違うけれど。 「どうしたの? 忘れ物?」 「まさか。ゆうこそ、どうしてここにいるの?」 「いや。ここにくれば涙に会えるかなって」 「俺に会いたかったの?」 「そうだよ」  ゆうが、窓際に寄りかかっている。窓の奥にはあまり色のわからない俺でもわかる、澄んだ空が広がっていて、それを背景に佇んでいるゆうはなんだか絵のようで綺麗だった。  俺は、導かれるようにしてゆうのところまで歩いて行った。淡い青の空と、ゆうと一緒に過ごしてきた時間へのノスタルジー。俺の手を引くのは、様々な感情。   「……なんかさ、涙とは結構長い間一緒にいたけれど……高校はなんか。特別」 「……そうだね」 「涙が、すごく変わったから。入学したころとは全然違くて……なんだか、涙が遠くにいっちゃったみたい」 「そんなことないよ。俺、ずっとゆうのこと友だちだって思っているから」 「……ありがと」  ゆうが切なそうに笑って、俺を見る。  ――すごく、苦しい感じ。ゆうが言った、「遠くに行ったみたい」という言葉は否定したけれど、意味は理解できる。昔の俺は、ゆうだけに依存して、ゆうがいないと生きることができなくて、だからゆうの傍にずっといた。けれど、今の俺は、色んな人を信じている。どこででも、生きることができる。  変わった代わりに、俺はゆうと過ごす時間が少なくなっていた。  ゆうは、俺が変われたことを喜んでくれている。それ故に、一緒に過ごす時間が少なくなっても、それを寂しいとは言わない。言わないだけで―ー俺もゆうも、寂しいのに。  ゆうは俺がもやもやとそんなことを考えていることを悟ったのか。くしゃくしゃと俺の頭を撫でて、笑ってきた。そして――そっと、俺の胸ポケットに入っている、ミュージックプレイヤーに触れる。 「俺があげたやつ。ずっと使っていてくれているんだね」 「……うん。ゆうが好きだって言ってた曲が一番好きで、よく聴くよ」 「本当? それは嬉しい。何か新しい曲は入れたの?」 「……ううん。流行りもわからないし、何入れたらいいのかわからなくて」 「せっかく8ギガあるんだからいっぱい入れてよ。大学生になったら色んな曲を友だちに教えてもらいな」    俺がゆうからもらって以来、中身をそのままにしてきたミュージックプレイヤー。そこには、ゆうが入れた曲しか入っていなかったけれど……そうだ、これからたくさん曲を入れていこう。  まるで、このミュージックプレイヤーは俺自身のようだ。ゆうのことしか知らない、ゆうに依存しっきりだった俺。ゆうが入れた曲以外を新たに入れるということにどこか抵抗を感じていた俺は、やっぱりまだゆうに強い執心を持っていたのかもしれない。ゆうから「いっぱい入れて」という言葉を聞いて、すっと気分が楽になったような錯覚を覚える。昔、ゆうに依存していたことに後ろめたさを感じていた――そんな後ろめたさが今、俺の中から消えていくような感じがする。 「今、ゆうが好きな曲はあるの? 新しく入れる始めの一曲は、それがいいな」 「藤堂の好きな曲じゃなくていいの?」 「……むしろ、このミュージックプレイヤーに初めて入れる曲は、ゆうのものがいい」  頼んでみれば、ゆうはスマートフォンで曲のデータを送ってくれた。ここからどうやってミュージックプレイヤーに移すのかわからないと言えば、そのやり方を丁寧に教えてくれた。  ミュージックプレイヤーに、これから今のゆうが好きな曲が入る。それが、なんとなく喜ばしい。昔のゆうだけが詰まったミュージックプレイヤーが、新しく――生まれ変わる。それは、ゆうが生まれ変わるのと同時に。  それから俺とゆうはささやかな思い出話を咲かせていた。窓の隙間から、春風が入り込んでくる。 「ああ――そろそろ、時間だね」  朝の時間は短い。あっという間に時間は過ぎて、時間が迫ってくる。 「教室、行こうか。ゆう」 「――……待って」  遅刻してはならないと、この部屋をあとにしようとした。その瞬間だ。ゆうが、俺の手を掴む。  あ、そう思ったときにはゆうとの距離がぐっと近くなっていた。そして、俺が呼吸を止めたその瞬間に、――  ――ゆうは、俺の唇から少しだけ逸れたところへ、キスをした。 「――ゆ」 「……さよなら、しよう」  春風が、ゆうの髪の毛を揺らす。俺は淡い光を逆光に微笑むゆうに目を奪われながら、そっと、ゆうの手を取った。  この生徒会室を出て、教室へ向かって、卒業式に出て――そうすれば俺の高校生活は終わる。後ろ髪を引く何かがここにあるのかと言えば――そう、ゆうへの想いだろう。俺とゆうの間にある感情には、名前をつけることはできない。過去から今まで、俺とゆうを結んできたのは執心、恋情、友愛、憎悪、あまりにも対立する感情がごちゃまぜになった複雑な想いだ。それを残していたのでは、俺もゆうもきっと――前に進むことはできない。  始まりは、「好き」という感情ただひとつだった。そこからぐちゃぐちゃに歪んでいった。  今のキスで、歪んでしまった想いたちにケリが付いたのだろうか。「好き」だけを抱いていたあの頃へ、戻れただろうか。それはわからないけれど――でも、俺の瞳に映るゆうが今までよりも綺麗に見える。 「うん。さよならしよう。そしてまた――」  一緒に、生徒会室を出た。    俺とゆうは、もう一度、友だちになる。

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