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やがて鬼となる母と魄と名付けられた息子との徒然なる日々――【夏の月】
「…………」
「……ど、どうしたのです――急に立ち止まって……」
「ははうえ……これ、なんという……おなまえなのでしゅか?このあかい……お、おしゃ……かな……」
「ああ……これは――」
と、その時――不意に私の頭の中に今は屍王でありかつては愛を誓い合った桜獅が故郷の村である魚を贈ってくれたのを思い出した。もっとも、その魚は――目の前の水の中で元気よくぴち、ぴちと跳ねながら泳ぎ回っている派手で真っ赤な金魚とは違って正反対の地味で真っ黒な魚だったのだが――。
しかし、それでも――私の心は暫しの間……かつて故郷で愛を誓い合った桜獅、屋敷の使用人だった木偶の童子――それに幼なじみだった狂善と暮らした日々に捕らわれていたのだ。
「ははうえ、ははうえ……この、おしゃかなは……なんなのでしゅか!?」
はっ――と我にかえった私を、魄は心配そうに見つめながらも着物の袖をぐい、ぐいと引っ張りつつ不思議そうに尋ねてきたためその問いかけに答えようと口を開きかけた時、
「はは……金魚も知らねえのですかい?もしや、王宮から来た高貴なお人の息子様ですかい?もし良かったら、一回やってみてはどうですかい……その可愛らしい息子様に免じて御代はいらねえです……ほれ、王宮のお偉い方の息子様……金魚がほしいのなら、どうぞ?」
金魚すくいの屋台の主人らしき貧民の男が――にかっと歯を剥き出しにしながら、やけに好意的な笑みを魄と私へと尋ねてきた。思わず、その態度に警戒心を抱いてしまったが――そんな私の気持ちなどお構い無しに魄は無邪気に屋台の水槽に群がっている金魚の方へと駆け寄って行く。
「ち、ちんぎょ……ちんぎょ!!」
「あっ……魄、お待ちなさい――いけませんっ……母の言い付けを守るようにと言ったでしょう!!」
――ぱしっ……
と、思わず焦りと不安から――軽くとはいえ危機感もなく無防備に屋台の金魚の方へと駆け寄って行く魄の頬を叩いてしまった。
「う、うわぁぁんっ……ははうえ、きらいっ……ちんぎょ、ちんぎょがほしい……ひらひらした……きれいな……ちんぎょが――ほしいんだもんっ……」
ばしっ……!!
「……あっ…………!?」
――その時、まさかの事が起こった。
私に頬を叩かれ――癇癪を起こした魄の手が顔に思いきりぶつかってしまい、そのせいで私が被っていた黒布が――地面に落ちて顔が露になってしまうのだった。
その途端――先程まで好意的な笑みを浮かべていた金魚すくいの屋台の主人の顔が軽蔑と嫌悪に歪む。恐らく、王宮から縁日に来ていた守子の中の誰かが――私の事を吹聴していたのだろう。
「あーっ……もうそろそろ、店は終いだからよ……その淫乱じみた嫌らしい顔を……こっちに向けねえでくだせえや……その息子も……おめえさんみてえになるんだろうなぁ……」
にや、にやと下品な笑みを浮かべる主人に対して嫌気が差した私は泣きじゃくったままの魄と、そんな彼を必死で宥めすかしながら主人をぎろり、と睨み付ける木偶の童子と共に縁日の場を後にするのだった。
(やはり……こんな場所になど来なければよかった……そうすれば……そうすればこのような屈辱的な思いなどせずに済んだのに……っ……)
――激しい憎しみ、
――激しい怒り、
――激しい後悔、
――激しい自己嫌悪、
そのような感情を必死で内へ内へと閉じ込めて、ぐるぐると駆け巡らせる事に酷く集中していた私は先程いた金魚すくいの屋台のすぐ側から――ある人物が私達と主人とのやり取りをじっと見ている事など知る由もなかったのだった。
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