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童子は母の夢を見る【夏の月・承】

『凶善様は尹様のことを好いておられるのですか____?』 などとは、口が裂けても聞けずにただひたすら真っ直ぐに尹を見つめる凶善に視線を送り続けるばかりの木偶の童子だったが、それも唐突に終わりを告げた。 今まで熱心に金糸枝の側に落ちていた何かに気を取られて観察していた尹が、此方へと目線をあげて、にこりと微笑みかけてきたからだ。 そのせいで、凶善は反射的に赤く染まった顔を木偶の童子の方へと動かすと、彼と目を合わせまい、と木偶の童子はふいっと咄嗟に目線を脇へ逸らした。 もちろん、どくどくと心臓が早鐘のように打っているが先ほどまで尹に熱い視線を送り続けていた凶善はそんな木偶の童子の様子にはこれっぽっちも気付いていないようだった。 「おい、尹__お前……何をそんなに熱心に__って、うわっ……これ蝶の幼虫じゃねえか……でも、ぴくりとも動かねえな。ええと、確か脱皮とかいうんだっけ?これがやがて、あんなに綺麗な蝶になるんだろ?こんなに気持ち悪いのに__信じらんねえ」 「凶善……これは、確かに蝶の幼虫だけど__この状態は脱皮じゃないよ。これは、《眠》っていって《脱皮》の前段階。脱皮するために力を蓄えてるんだ。そして脱皮して蛹になって孵化してやっと蝶々になる__蝶々は古い体を捨てて、何度も新しく生まれ変わる生き物なんだ__なんだか面白いって思わない?」 唐突に、先ほどまで蝶々の幼虫や凶善の方へ注がれていた尹の視線が木偶の童子の方へと向けられて何故かどきっとしてしまう。 異様なくらいに真剣な目付きで尹が此方を見つめてたからだ。 「ゆ……尹様__もしも脱皮がうまくいかなかったら……これは……どうなってしまうのですか?」 咄嗟に、木偶の童子は瞬間的に思い浮かべた疑問を尹へと投げ掛ける。少しばかり鈍感な凶善でさえも先ほどから尹が異様な程に真剣な様子で木偶の童子を見つめていることに対して怪訝に思ったのか口を閉ざしてしまっていた。 「え…………死んじゃうよ?だって新しく生まれ変われなかった生き物は死を受け入れるしかないじゃないか。でも、そのまま不完全な状態で無理やり生きさせられるのと__命を落としてしまうのと……どっちが__」 と、言いかけたところで尹は口をつぐんでしまう。凶善が今まで見たことのないような恐ろしい表情で彼を睨み付けてたからだ。 「あ~……止めだ、止めだ。そんなしみったれた話しは聞きたくねえよ。こいつは、まだ生きてるんだ……必死でこれからを生きようとしてるんだ__それで良いだろ?尹、お前……何かあったのか?それとも、何か他に俺らに言いたいことでもあるのか?」 「ん……そうだね、この幼虫の話はこれで終わりにしようか。君たちに言いたいこと、というより__君に聞きたいことがあるんだ。凶善__もしも、ぼくがこの先の長い人生で――生きていたくないとか生きているのが辛いと思った時には……ぼくを……助けてくれる?楽になるために手伝ってくれる?」 いったい、尹に何があったのだろうか____。 今宵の彼は明らかにおかしい、と思いながらもあまりの尹の迫力に木偶の童子も凶善も唖然としてしまう。 しかし____、 「ああ…………もしも、そうなった時は……お前を助けてやるし、楽になるために手助けもしてやる。だから、泣くな。お前のそんな姿は――見たくない」 「じゃあ____約束して?指切りげんまん、嘘ついたら、裁縫針で口をちくちく縫ーうぞ……指きった」 「はいはい、約束……約束。俺、その歌――気味悪いから嫌いなんだけどな……でも、ちょっとは元気になったか?晴れ晴れした顔をしてる__」 この二人の絆には、叶いっこない――そう思いながら木偶の童子は冷たく吹きすさぶ夜風に曝されつつ、尹と凶善の側から無言で離れてある場所に向かって歩いていた。 とにかく、一人になりたかった傷心の木偶の童子は唐突に襲ってきた気だるさを堪えつつ屋敷に戻るためにフラフラとした足取りで歩いていく。ぐる、ぐる――と世界中が回るような感覚を抱く目眩に襲われ、体全体が熱くなる。 夜風に吹かれたせいで風邪にでも罹ってしまったか、と不安を覚えつつも何とか屋敷の己の部屋に辿り着いた木偶の童子はゆっくりと瞼を閉じたものの、つい先ほどの尹と凶善のやり取りを思い出してしまい枕を涙で濡らしつつ、そのまま眠りの世界へと誘われたのだった。

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