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童子は母の夢を見る【夏の月・転】
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その後、屋敷内へと戻った木偶の童子だったが第一王子とその側近の坊主とを招くのを祝した夕餉の時刻となっても心ここに在らずで普段よりも数倍は豪華な食事や酒を運んでいた。
『禍厄天寿様――その言葉を覚えておけ』
次期国の王となる桜獅の存在も、木偶の童子を緊張させるには充分過ぎる程の要因となってはいるのだが、それよりもむしろ――王子の側近である【明徳】なる坊主の一言の方が気になった。
【禍厄天寿】なる存在が、如何なるものなのか――好奇心をそそられ、そしてその詳しい話を明徳から聞き出したいという欲求が態度に表れてしまっていたのだろう。
「あ……っ____!?」
屋敷の主がわざわざ異国から取り寄せたといつ《阿闍羅魚の煮付け》が乗った皿を床に落としてしまったのだ。幸いにも、床にはこの特別な夕餉のために隙間がない程に虎柄の絨毯がびっしりと敷き詰められていたため皿が割れることはなかった。
そのため、屋敷に支えている誰かが怪我をしたり__王子や明徳、それに何人かの従者が怪我をすることはなかったが床に落ちた拍子に《阿闍羅魚》が落ち跳ねたせいで明徳の衣服が汁で汚れてしまう。
木偶の童子が慌てて、それを拭き取ろうと明徳へ近付こうとした。しかし、それよりも先に屋敷の主が急いで駆け寄り、木偶の童子の小さな体を床へと押し倒した。
絨毯が敷き詰められているとはいえ、勢いよく倒されればそれなりに痛みを感じ、木偶の童子は涙ぐんでしまう。
「この……っ____何をしているんだ……木偶の坊め……役立たずめ……っ……よりにもよって、こんな大事な日に……!!」
呪いの言葉を吐きながら険しい形相で屋敷の主は鞭を取り出すと、そのまま何度も木偶の童子の体を打った。
木偶の童子は、屋敷の主に鞭を打たれながら必死で体を縮こまらせ尚且つ腹を抱える。
周りの者達は唖然とするばかりで屋敷の主の実の息子である尹ですら立ち尽くしてしまい、主よりも圧倒的に立場が下である凶善は反抗など出来る筈もなく動揺するばかり____。
それほど、屋敷の主の怒りは大きいのだ。
(誰も、守らないのなら……自分で守るしかない……っ……)
ついには涙ぐんだだけでなく、ぼろぼろと大粒の涙を溢しながら目を固く閉じていた木偶の童子が、そう決意すると屋敷の主に対する反省とそれにも勝る怒りと憎しみを込めて鬼のような形相の彼の目をまっすぐに見据えた。
よほど、木偶の童子の目力が強かったらしく屋敷の主は僅かにたじろいだ。
すると____、
かん、かんっ――と部屋の中に何か固い物を叩く音が響く。
「まあまあ、折檻はそれくらいにしては如何かな?このような粗相は些細なことゆえ、今は折檻よりも__夕餉を楽しむのは如何か、と儂は言いたいのだ。このような汚れは、洗えば済むこと……それよりも、使用人のお主――ええと、木偶の童子だったか?夕餉が終わり次第、儂の行水の手助けをしてはくれまいか?この通り、不自由な体ゆえ……。せっかく用意して頂いた食器を箸で叩いてしまい、失礼致した。言葉だけでは__通じぬ、と思ってしまったゆえの咄嗟な行為だ……了承下され」
唐突に目前にある食器を箸で叩き、捉えようによっては主人から折檻を受ける木偶の童子を庇ったかのような行動をとったのは、明徳なる坊主だった。
先ほどから気になってはいたが__どうやら明徳は右手の自由がよくきかないらしい。全く不自由というわけではないらしいが、震えが酷いため左手で食器を叩いたようだった。
「わ……わたくしで__宜しければ手伝わせて頂きます」
「うむ、宜しく頼むぞ……木偶の童子よ」
などという木偶の童子と明徳とのやり取りを、じとっとした目付きで見つめてくる人物がいた。
凶善だった____。
その険しい目付きは、「あんな怪しい坊主を手伝うのは止めろ」といわんばかりに思わぬ所から差し伸べられた救いの手を見て安堵した表情を浮かべている木偶の童子に忠告しているかのようだ。
しかし、木偶の童子はそんな凶善の忠告を無視するかのように、ぷいっとそっぽを向いてしまう。
(凶善__あなたは……ぼくらを助けようとはしてくれなかった――でも、屋敷の主人に言葉をかけた明徳殿は違う……っ……彼はぼくらを悪から救おうとしてくださってる……)
『禍厄天寿』____ぼくらに、救いをもたらすという存在は何なのか。
それを聞く好機だ、と揺るがぬ決意をした木偶の童子は凶善の忠告を見て見ぬふりをして夕餉を後、行水場へと急いで向かっていくのだった。
薄暗い廊下の段差足をとられ、前方に転んだりしなちように充分に注意をしながら――そして尚且つ、僅かに痛む腹を擦りながら明徳と待ち合わせした場所へと歩いて行く。
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