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童子は母の夢を見る【夏の月・転】

◆ ◆ ◆ ◆ 「随分と遅かったではないか……あまりに待ちくたびれた故、このまま地蔵か__案山子にでもなるかと思ったぞ?」 「も、申し訳御座いませんでした……っ___あの後、屋敷の主人の機嫌を治させるのに手間取り、骨が折れる思いでした故に……明徳様を寒空の下で待たせてしまいました」 屋敷の端に建てられた行水場の脇に植えられ、強い存在感をあらわにする赤い夾竹桃の下で明得は、地蔵のように立っていた。待ち人から待たされたという怒りや負の感情を微塵も表していない彼は屋敷の主人とは違って尊敬すべき人物だと木偶の童子は改めて思ったのだ。 二度と粗相をしないように、と木偶の童子の体を玩ぶような下劣な屋敷の主人と王宮に仕える徳の高い坊主とは何もかもが違う――と、唇を噛みしめながら苦々しそうな表情を浮かべる木偶の童子の様子を見た明徳は、彼には気付かれないように慎重に口角をあげて笑みを浮かべる。 「なに、そんな些細な事など善い……善い__だが、そろそろ行水しとうなった故、早う洗体をしてはくれないか、と思うただけのこと。まあ、本来ならば……体を浄めるべきは――お主かもしれぬがな」 意地悪く微笑むと、そのまま明徳は所々穴だらけで尚且つ薄汚れた襤褸を纏った木偶の童子の体を上から下まで睨み付けるようにしながら観察する。 「失礼ながら__それは、どういった意味でしょうか?いくら見た目が汚らわしくとも……毎夜、行水は欠かさず行っております」 明徳が意地悪く微笑みかけてくるせいもあって、木偶の童子はつい身分の低い己が【ろくに行水すら行わせてもらえない餓鬼】だと徳の高い坊主である彼から蔑まれていると勝手に思い込んでしまった。 それゆえに、僅かながら声を荒げて語気を強めに言い放ってしまったのだ。 すると____、 「いや、いや……失敬した――木偶の童子よ、わしが言うたのは、別にお主を汚らわしいと蔑んだ訳じゃないのだ。それと同時に……ただ単に、お主を表面的にだけ捉えて体を浄めた方がいいと言った訳でもなし。お主から果てのない【咲気】が滲み出ておる。わしの目には黒き負の【咲気】が丸見えようぞ。わしは、それを浄めたら善いと言ったのだ。全ては、禍厄天寿様の御心次第。浄化することでお主の【咲気】が認められれば、お主は――いや、お主らは幸せになり得ようぞ?」 「…………」 「この行水が終わったら、わしと共に……禍厄天寿様に__会いに行こうではないか?のう、木偶の童子よ……お主は――いいや、お主らは…何を犠牲にしてでも幸せに日々を過ごしたいのだろう?」 正直に言うと、木偶の童子には明徳が何を言わんとしているのか正確には理解出来なかった。 しかし、今目の前にいる明徳は自分と腹の中にいる新しく育まれゆく【命】を幸せにするべく救いの手を差し伸べてくれていることだけは明確に理解出来た。 だからこそ、木偶の童子は再び唇を噛みしめてから愛おしげに腹を擦ると――己達に差し伸べられる明徳の不自由ではない方の手を握り返したのだ。

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