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童子は母の夢を見る【夏の月・転】

* 「…………が終わりました。明得様、あなたのお目がね通り……この木偶の童子とやらは《種なる脱皮》にふさわしい存在だったということです」 ふと目を開けた時には、既に雲ひとつない真っ青な空にぎらぎらと照りつける太陽が昇る時刻となっていた。 それにも関わらず、どういう訳か太陽の光が照りつけてくる夏だというのに、木偶の童子の体はまるで冷水を浴びたかの如く冷たいのだ。 しかしながら、木偶の童子の心は冷えきっている体とは裏腹にまるで空に照りつける太陽の如くめらめらと怒りの炎に燃え上がっていた。 ある人物に対して、堪えがたく凄まじい怒りがこみ上げてきて木偶の童子の心をぎりぎりと締め付けてくるのだ。 それは、とても身近なる人物でその気になれば幾らでも排除できると木偶の童子は分かりきっていた。 「なるほど……やはり、私の目は定かだった。木偶の童子よ。お主はやはり禍厄天寿様のお目がねにかかったのだ。あとは、この暗き闇の穴で聞いた【声】の通りに……従うのだ――種なる脱皮は未だ終わってなどいない。ようやく足を踏み入れたのみ……重要なのは、これからだ。黒子よ、今からお主がこの木偶の童子の身の世話をしてやれ。それが《種なる脱皮》を完全には遂行できなかった、お主の新たなる仕事ゆえな」 それだけを言うと、いつの間にか木偶の童子の顔を覗き込んでいた明得が満足げに笑みを浮かべてうつ伏せになっていた体をぐいと引き上げた。 身に纏わりついた泥を淡々とした動作で払いのけながら、木偶の童子はそのまま身を翻して屋敷の方へと戻って行く明得の後ろ姿を目で追った。 頭の中では、【種なる脱皮】という奇妙な言葉を反芻していたが、何故か明得に聞く勇気が出なかった木偶の童子は側に駆け寄ってきた【黒子】なる童子に聞いてみようと口を開く。 「あ、あの……明徳殿が仰っていた《種なる脱皮》とは……いったい____」 「種なる脱皮とは、崇高なる禍厄天寿様のお目がねに叶った者のみが遂行できる気高き行為――それは、おのずと分かるよ……いや、分からざるを得なくなる。それにしても、悔しいなぁ……お前みたいな奴が……禍厄天寿様のお目がねに叶うなんて。幾らでも、その機会があるというのに愚図愚図とくすぶっている臆病者に……負けるだなんて。えっと、木偶の童子だっけ?」 「は、はあ……そのように呼ばれていますが……」 どうにも、この【黒子】なる雪のように真っ白な出で立ちをした童子は苦手だと本能で察した木偶の童子は無意識のうちにじり、じりと後退しつつ仕方なしに問いかけに答える。 「僕のように、お前にも排除したいと願い続ける存在がいるんだろう?夜も眠れない程の強い憎しみで押し潰されそうになるくらいに死……いやこの世に存在することを抹消したいと願う存在が……いるんだろう?もし、その存在を抹消することに成功したら明徳様の前以外では干渉するのを控えてあげるよ……まあ、愚図で意気地無しのお前には出来ないだろうけれどね」 好き勝手に言い放った後に、明徳の従者である【黒子】はその場から愉快げに笑みを浮かべつつ去って行った。 しかしながら、木偶の童子の心にはつい先程【黒子】が放った言葉がこびりついて簡単には離れてくれない。 【排除したいと強く願い続ける存在】____。 【夜も眠れない程に強く抹消(死)を望み続ける存在】____。 ふと、ある物を懐に入れていたことを思い出すと物思いに耽りながらもそれを取り出した。 手の中でぴくりとも動かないそれをじっと見つめ続けていると、ただでさえ、さざ波の如く揺らぐ木偶の童子の心を掻き乱されてしまう。 暫くの間、そうしている内に木偶の童子の決意は固まった。 しかしながら、それを決行するには充分な時間が必要であり今日明日出来るような簡単なことではないと分かりきっていた。 (屋敷にいる者達……従者や主人はもちろんのこと――何よりも尹様や……凶善様にも……悟られないように気を付けなければ……) 頭の中に幾つもの作戦を思い浮かべながら、木偶の童子は退屈な公務が待っている屋敷へと一人寂しく戻って行くのだった。 先程まで、蝉の脱け殻を大事そうに持っていた右手で腹を擦りながら____。 *

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