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童子は母の夢を見る【夏の月・転】

* それから、数日経った。 (種なる脱皮とやらを完遂するためには、どのような手順を踏めばよいのだろうか……その気になればあやつを手にかけることなどやれなくもないけれど……しかし――) 考えなしに無闇やたらに手をかけては、周りの者たちに怪しまれてしまう。 それに、相手と己の間には体格の違いという大きく立ちはだかる【壁】があるというのを木偶の童子はしっかりと頭の中に入れていた。 それでも、屋敷内の物置小屋に置いてある《鍬》やら《鎌》といった農具でもあり身を守る武器にもなりえるものを使えば体格差はあれど、何とかなるかもしれない。 (でも、確実じゃない……少なくとももっとあやつを確実に手にかけられそうな計画を練らなくてはならない……それを行わなければ明得様や黒子という童子のおっしゃっていた種なる脱皮などできないだろう……何か、もっと良い方法は……) などと、上の空で木偶の童子が屋敷内の掃除をするべく箒を手にしながら廊下を歩いていたところ、すぐ近くから複数の者が話している声が聞こえてきた。 声の甲高さから察するに、瞬時に大人のものではないと思った。 木偶の童子は僅かに安堵感を覚えつつも見つからないように太く朱が目を引く柱の陰に隠れながら様子を伺う。 そこには、思ったとおりそこまで年齢が違わやさそうな童子が数人いる。 真ん中には、うずくまりながら体を小刻震わせて耳を澄まさなければ聞こえないくらいに小さな嗚咽を漏らしている童子が一人。 そして、その様を真上から見下ろし汚い暴言をはき、醜い笑い声をあげている三人の童子達が真ん中の彼を取り囲んでいるのが分かる。 耳を澄ましてみると、このような会話が聞こえてくる。 「お前、按摩見習いだか何だか知らないが……この俺を差し置いて、唏実殿の肌に触れるなんて一介の庶民ごときが生意気な……っ____おおかた、唏実殿に色目でも使ったんだろ……この、婬売野郎……上の立場の者に色をかけければ取り入ることが出来ると思ったのか……卑しい奴め!!」 いつの間にか、懐から取り出した鞭を振り上げてうずくまり続ける童子の肌にそれを容赦なく降り下ろす。 先程から話に出ている唏実殿とは、屋敷内を警護する纏め役の男で、とても逞しく顔も整っている。しかも、勉学も出来て賢いという正に完璧な男なのだ。一方、そんな文武両道な彼に対して洪は強い恋愛感情を抱いているのだから、とてつもなく厄介だ。 屋敷の主の専属使用人の息子である洪が、家畜に使用する鞭で打ちながら、肩を小刻みに震わせて怯えている按摩見習いだという童子(見たところ年はそれほど変わらなそうだ)へと罵っている様が見えて、木偶の童子は思わず眉間に皺を寄せてしまう。 【婬売野郎】――その言葉が、木偶の童子は何よりも大嫌いで反吐が出そうなほど憎いからだ。 育て親である楊が生前に何度も周りからそう罵られた記憶が蘇り、いつの間にか口から血が流れてしまうくらい強く噛みしめた。 しかし、中央にうずくまる童子は肩を小刻みに震わせて嗚咽を漏らすばかり。顔すら、上げることはせずに反論など一切ない。 そんな彼の態度も腹立たしくて、つい怒りに任せて勢いよく彼らのいる方へと身を乗り出してしまった。いつもであれば、面倒ごとなんて嫌いだし、そもそも未だに中央で身を屈ませながら反論すらしない童子のことなんて知りもしないのだから本来ならば放っておいても良さそうなものだ。 「誠に失礼ですが、いくら何でもやり過ぎなのでは?洪様が、唏実殿をお慕い申しているのは……この童子には関係のなきこと――違いますか?」 しかし、木偶の童子はどうしても見過ごすことが出来ずに、仕事で来ただけで罵りを受ける哀れな按摩見習いの童子を庇った。 「こ、この……っ____お前はこれを庇う気か!?御主人様に拾われただけの、何処の馬の骨とも分からない……いや、そこは訂正するとしよう。王宮に体を売る婬子として献上された……楊とかいう男の息子のくせに……っ……!!楊は随分と具合のよき性玩具だったそうだな……父上も褒めていらしたぞ?」 口汚く罵っていた張本人の洪が、口元を醜悪に歪ませながら此方を見下してきた直後――とうとう怒りを堪えきれなくなった木偶の童子は殴りかかるべく身を乗り出していた。 しかし____、 「あなた様が……洪殿なのですね。実は、唏実殿から……あなた様へ渡すようにとこれを預かっていたのを忘れていました。申し訳ございません……私は一介の名すらない庶子ゆえ、至らずに不快感を与えてしまった……どうか、これをお受け取りください。異国では、茉莉花の花は恋の証とされているようで……」 と、今さっきまで罵られ尚且つ鞭打ちという暴力まで受けた者の態度とは思えない程に落ち着き払った声が聞こえてきて、驚きを隠せないまま木偶の童子はおろか罵っていた張本人の洪ですら声が聞こえてきた方へ慌てて目線を向けるのだった。

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