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童子は母の夢を見る【夏の月・転】

「そうやんな……確かに、この世で生きてゆく上で名前というもんは――大事やな。だがな、めんこい童子よ……名をつけたくないという単純な理由でつけていない訳じゃない。二人で約束したんや……一人前になるまでは名を与えない。その代わり、一人前になったら立派な名前を与えてやるとな」 「そ……そんな____そんなのは、おかしいのではないのですか?もう、この世にはいませんが……僕の育て親はしきりにこう言ってました。名前を与えることで、命が更に重要なものになると……僕には木偶の童子という呼び方がありますが、その方は決してそういう風には呼ばなかった。いつも、でくと呼んでくれていた……」 名前の必要性について訴えかけつつ、今よりもずっと幼い頃の楊との思い出が溢れ出してくるのを必死で抑え込んでいたのだけれど、遂には我慢しきれずに思わず二人の前で涙をこぼしてしまった。 木偶の童子は、今まで決して見せてこなかった弱気な姿を、信用しきれない他人――しかも、あろうことかこの屋敷内にて出会ったばかりの二人に見せてしまうことに強い抵抗を感じてしまったため咄嗟に目線を真下におろした。 「では、お前が我に名をくれるとでもいうのか?まるで、師匠のことを悪者のように言っているが……どうせ、お前もこの前の輩達と同じで我のことなど眼中にもないくせに。だが、我は貧民街の出だからな……それも無理なきことだ」 あまりにも、予想外の言葉が聞こえてきたため木偶の童子は思わず、濡れたままの瞳を不機嫌な声色で冷静に話す弟子の方へと向けてしまう。 まさか、弟子の口からそのような言葉を向けられるとは思っていなかったのだ。 「……ゅん____」 「何だと……っ……!?」 木偶の童子は、此方を蛇の如く睨み付けてくる弟子に負けじと同じように彼を睨み返す。 そんな此方のやり取りを、世幸は一言も責めずに、まるで子を見守る親のように見守っているのだけれど、互いに睨み合っていたため、そんなことには気付ける訳もなかった。 「だ、だから……世純という名はどうかって言っているんだ。師匠の名が《世を幸せにする》世幸ならば弟子の君は《世を純粋にする》という意味も込めて……。気に入らないのなら、無視してくれてもいい。もちろん、これからの……」 「世純……世純だと!?みすぼらしき格好をして屋敷に仕える童子が考えるにしては、 いい名ではないか……だが____」 此方の話を途中で遮るだけてなく、自分とてさほど年の変わらぬ童子であるにも関わらずどこか偉そうな態度を見て木偶の童子はいい気分はしなかった。 しかしながら、自分のつけた名前に対して満足さをあらわにしている様には優越感を含んだ喜びを抱いたため何も言わずに黙っていた。 すると、どことなく遠慮がちに世純(と名付けようとしている)が、ちらりと師匠である世幸の顔色を伺った。おそらくは師匠の許可を、きちんと得てから名前を貰わないといけないと思っているらしく、そんな所は真面目なのだなとおかしくなってしまい軽く吹き出してしまう。 「世純……良き名やんな。これからは、世純と名乗るがいいやき……この師匠のことは気にするんやない。そうや、これも何かの縁やな……これから二人きりで話でもしたらどうや?もちろん、お前さんの公務がなければの話やけどな……そうやった、お前さんの名は何というんや?」 「で、で……」 あまりにも、太陽の如き眩しい笑みを世幸が浮かべつつ尋ねてきたものだから、その照れくささから上手く言葉がすらりと出なかった。 そのため、再び己の名を告げようと口を開きかけた木偶の童子だったが、この直後に予想もしなかった人物によって邪魔される形となってしまうことなど知る由もないのだった。

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