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童子は母の夢を見る【夏の月・転】
「おや、これは……これは____珍しい光景ですな。このように大人数で、このような場所で群れとなっているとは……さながら異国の大鼠のごとき光景ですぞ?」
予想もしない人物の正体____。
それは、緩やかな笑みを張りつけた明得だった。
そもそも、今が夜であるならばまだしも太陽が昇り散々と陽の降り注ぐ昼間から明得が屋敷をうろついていること自体が珍しい。
大抵は、彼の住みかであり寝所でもある【祝寿殿】である間に篭り、いわく神のお告げに耳を貸すべく念仏を唱えたり世の中の邪念を切り放すという重大な公務を行っているというのを、近々耳にしたばかりだった。
「……っ____!?」
声を失ってしまうほどに驚いたのは、按摩師(見習いも含め)の二人と木偶の童子ではなく、またしても意外なことに先程まで憎たらしいくらいに毒を吐き続けていた洪だった。
洪は何事かは知らないものの、明得を見るなり血の気がなくなってしまったかのように顔を俯かせて先程とは別人の如く変わり果て、地蔵の如く黙ってしまう。
すると、世幸が握ったままであった《唏実から預かったという茉莉花の香り袋》をやや乱暴に引ったくると、そのまま脱兎の如く何処かへと去っていってしまう。
屋敷の使用人とその身内という役職者は【祝寿殿】に篭り日がな一日念仏を唱えて神に祈りを捧げているという坊主やら神主やらに対して、昔から快い感情は抱いていないという噂を聞いたことがあるという記憶を頭の中で手繰り寄せた木偶の童子は、そのようなことなど然程気にもしていないといわんばかりに未だこの場から去ろうともせず仏像の如く仁王立ちしている明得へと視線を移した。
すると、それが当然だ――とばかりに明得の目と木偶の童子の目がかち合った。
そして、その力強い眼力でのみ木偶の童子へと『此方へ来い』と有無も言わせずに訴えかけてくるのだ。
しかしながら、巧妙なことに明得はそれを悟られまいと、すぐに菩薩の如き寛容かつ朗らかな笑みを浮かべつつ二人の按磨師(見習い)へとこう言うのだ。
「先程の童子____確か……赤守子殿の一人息子である洪とおっしゃいましたかな。あの童子には誠に失礼なことをしてしまった。お三方との会話を邪魔してしまいましたゆえ。処で、按磨師のお二人を洪という童子のお父上である宋様が呼びつけていました故、此処に来たのですが、何でも下半身が凝って仕方ないとのことで手練れである世幸様に按磨して頂きたいのだとか。この木偶の童子なる者は私が預かる故に、一刻も早くそちらへ向かわれては?」
その時、木偶の童子は確かに見たのだ。
菩薩の如く穏やかな笑みが瞬時に邪神の如くぐにゃりと歪み、まるで別人のようになった明得の顔つきを____。
そして、それはおそらく近くにいる世幸や弟子である世純も気がついたに違いない。
一瞬とはいえ、世幸の顔――というよりその切れ長な両目は悲しげに細められたし、更に世純に至っては今すぐにでも掴みかかってきそうなくらいに、かっと目を開き怒りを露にしつつ睨み付けているのだ。
しかしながら、明得はそんなことなど気にもしないのか、更に胸の前で右手の人差し指と中指を重ねてそれを世幸達の前に見せつける。
木偶の童子は無知同然なため、その行為にどのような意味があるのかは知らないものの、どことなく悪い意味のような気がしてならない。
世純が明得へ向かって身を乗り出してきそうな所を見ると、途徹もなく二人に対して失礼なことなのではないか――と思ったものの、まるで糸で縫われてしまったかのように反論の言葉が出てこない。
「わざわざ、此方に来てまで教えてくださり……ありがたき幸せにございます。それでは、私らはこれにて失礼致します」
血の気の多い世純と違って、世幸は深々とお辞儀をすると狂犬の如く敵意をあらわにしている弟子を宥め、その場から離れていった。
何ともいえない罪悪感に襲われ、尚且つ無力な木偶の童子は二人の按磨師の背中をぼんやりと眺めることしか出来ずにいた。
「木偶の童子、此方へ来なさい――さあ____」
後ろ髪を引かれる思いの木偶の童子だったが、普段と打ってかわって低い声色で命令されたため、びくりと身を震わせつつその声に従うし為す術べがない。
そして、子犬のように明得の後に着いてゆくのだった。
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