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童子は母の夢を見る【夏の月・転】
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あれから、木偶の童子は言葉を一切発せず、それどころか此方を見ようともしない明得によって半ば強引に屋敷の中庭へ連れてこられた。
時刻は真っ昼間で、容赦なく太陽が照りつけてくる。ほんの僅かな間、陽光を浴びただけだというのに頭全体が火傷してしまいそうなくらい、じりじりと照りつけてくるせいで異常なほど暑いのだ。
濡れ鼠のように全身が汗にまみれ、あまりの不快さから顔を歪めてしまう。先程からすれ違う他人を咄嗟に睨みつけ、怒りをぶつけてしまう程に暑さというものは不快だ。
ひっきりなしに鳴き続ける蝉の大合唱が、更に木偶の童子を不快にさせる。蝉は人間と違って【空気を読む】という行動をしない。
本能的に鳴き続け、独特な声色を響かせることが人間の怒りという感情を刺激するのは夢にも思わないのだから致し方ない。
木偶の童子は童子なので、どうしても異様なくらいの暑さと喧しい蝉の鳴き声に対して激しい怒りを抱いてしまう。
しかしながら、明得は違う____。
彼は木偶の童子のように濡れ鼠の如く全身汗まみれにはなっていない(とはいえ額にうっふら汗が滲んでいるが)____。
ましてや、いくら暑さを不快に思っていたとしても木偶の童子のように、すれ違う他人に対して怒りなどぶつけておらずに涼しい顔をしながら、ひたすら何処かへと向かって歩いていく。
ふと、明得は無言のまま――更には一度も木偶の童子の方へ顔を向けることなく足を止めた。
木偶の童子は、おそるおそる顔をあげる。
それは明得が自分に対して、何らかの怒りを抱いているのではないか――と内心恐ろしくて堪らなかったからだ。
むろん、木偶の童子にはその心当たりなど検討がつかないのだが。
「木偶の童子、これを見てみなさい」
しかし、その予想に反して明得の声色はすこぶる優しい。
まるで、親が子に対して愛を囁きかけるときのように穏やかな声色だ。 かつて、楊が悪夢を見て寝付けない自分に対してかけてくれたものと瓜二つな声色。
懐かしい響きを感じさせる明得の声に引き摺られ、木偶の童子は自然と彼が示している立派な菩提樹の真下へと目線を落とした。
そこには、弱りきってぷるぷると小刻みにその小柄な身を震わせる瀕死の雀が一羽、地に伏している。
恐らく烏かなにかにやられたのだろうが、その身には何度も突っつかれたかのような傷があり、更に熟れた石榴の如く深紅の血が流れ出ていて乾いた土に染みをつくっている。
鳴き声すら碌に発せていない、その様が木偶の童子に微かに残されていた《弱き者に対する同情心》を刺激してくる。
そんなものは、育ての親だった楊が、王宮に蔓延る輩から排除されこの世からいなくなった時に――既に綺麗さっぱりと失くなっていたと思っていたにも関わらずだ。
無言で近寄って行くと身を屈めて、その哀れで弱りきっている瀕死の雀を救うために、その両腕を伸ばしかける。
そんな普通の童子らしい行動が、明得の気に触れてしまったのだろうか。
菩薩の如き穏やかな笑みは決して崩れることはないが、此方を見つめてくる双眼は氷の如く冷たく、少しの刺激でひびが入ってしまう硝子玉の如く険しい。
「なるほど。もう少しで特別な存在になりえるお前だというに、ここにきて、そのような愚かな行動をするのか。全くもって残念だ……お前は、もはや特別な存在ではない。単なる有象無象の中の一人に過ぎぬ」
「明得様……私は、どのように致せば有象無象の中の一人としてではなく、特別な存在へと戻れるのでございましょうか?わ、私は……あのような愚劣極まりない輩と同じにはなりたくありません。特別な存在になりたいだとか、そのようなことではなく……私はただひたすらに有象無象の輩と同化したくないのです」
自分を受け入れてくれて今まで見捨てなかった明得を、これ以上怒らせたくはないし、それをしてはならない。
それに、何よりも育ての親である楊の命を理不尽に奪った王宮に暮らしている者たちや屋敷に蔓延る下衆な輩とも同化したくはない。
【禍厄天寿】という存在がどのように崇高なものか____。
【種なる脱皮】という言葉は明確にはどのような意味をもたらすのか____。
そんな難しいことなど学が貧しい木偶の童子には分からないが、己の本能が明得へすがるのが一番正しい選択だ――と告げている。
「木偶の童子よ、それは実に単純明解な答えといえよう。なにも先程のお前の行動が完全に間違っているとは言わぬ。その哀れな雀を助けたいというお前の優しい気持ちも否定はせぬ。ただし、雀を助けたいというのならば、そのやり方さえ変えればよい。木偶の童子よ――聡明なお前ならば既に何をすべきか分かっているのであろう?」
小振りな雀の身を、震える両手で掬いあげる。
(このまま力を込めれば、この哀れな存在は____)と頭の片隅で思ったものの、すぐにその考えを改める。
そして、木偶の童子は明得に言われるまでもなく自分の頭で考え、一度、菩提樹が聳え立つ庭から離れていくと少ししてから再び戻ってきた。
その手には、鍬を持っている。
無言のまま、ひたすらに土を掘り続け――やがて、そこまで深くはないものの、ひとつ穴ができた。
木偶の童子は弱った雀を、その穴へとそっと入れる。
そして、その上からゆっくりと丁寧に土を被せていく。
その行為は、哀れな雀にとっての【救い】だと信じながら____。
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