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童子は母の夢を見る【夏の月・結】

* その後、暫くは何も起きなかった。 というよりも、以前とほとんど何も変わらない日々を過ごしていた。 屋敷の主人である下品な男からは侮蔑の目を向けられ、按摩師(見習い)として王宮を行き来する世純達とはそれなりに交流を続け、更には屋敷の主人の長男である尹や付き人の凶善とも以前よりも減ったとはいえ無難な交流を続けていたのだ。 だからこそ、木偶の童子は「もしかしたら己の運命を左右するようなことなど特に何も起こらずにこのまま屋敷の中で平凡に暮らせるのではないか」と心の片隅ではその思いを捨てきれなかったのだ。 むろん、育ての親である楊を理不尽な理由によって失ったことは悲しいし、その件に関わった王宮の者に対する激しい憎しみを忘れさることなど到底できない。 しかしながら、自分を取り囲む屋敷の者達と暮らしていく運命というものを、完全に切り離すのは果たして正解なのだろうかという心の迷い____。 蝋燭の灯だけが照らす薄暗い部屋に敷かれた襤褸の布団の中で、目を閉じつつ、木偶の童子はひとり問答を繰り返す。 瞼の裏に、明得のあの穏やかでありながらも此方を見透かしてくるかのような不気味としか言い様のない笑みが浮かび上がってくる。 得たいの知れない恐怖と不安を払拭するべく他のことに意識を集中させようと幾度となく試みても、食器にこびりつく錆のようにそれは消えてくれはしない。 (それに、今日の昼間に起きた……あの___) と、ようやく明得の記憶から解放されたかと思えた木偶の童子の頭に新たな記憶が蘇ってくる。 それは、今日の昼間に起きたこと。 珍しく、屋敷内の廊下にて世純の師匠と主人が話していたのを見かけた。ただ、それ自体は何らおかしいことはない。 疲れ知らずであり、体は丈夫なため頻度は稀といえども時には屋敷の主人とて按摩師に依頼することもあるだろう――と、別段気にも止めずにその場を通り過ぎようとした途端に何故か二人揃って口を閉ざしたのだ。 そして、本当におかしいと思ったのはその後からだ。 屋敷の主人が、木偶の童子に対して態度を変えてきたのだ。侮蔑の目を向けることはおろか、わざとらしく笑みを浮かべすり寄ってくるその様に嬉しいどころか凄まじい恐怖心を抱いてしまう。 (まさか……まさか____) 医師ではない按摩師とて、他人の体の変化には敏感な目を持っていると言っても過言ではない。 そして、これは今更なのだが木偶の童子はつい先日に世純によって半ば強引に進められて彼の師匠により按摩を行ってもらったばかりだ。 最近、食欲もない。 となれば――自分の身に起こる異変というのは____《身籠り》なのではないか、と木偶の童子の頭に恐ろしくおぞましい考えが嫌でも浮かんでくる。 (あの、おぞましい主人からの一方的な行為……それも一度きりのもので身籠りをさせられたとでもいうのか____) 季節は真夏の夜――それも未だかつてない程に、むんとした熱気が辺り一面を支配する夜だというのに仰向けとなりながら、天井の虫のごとき歪んだ木目を、ただひたすらに見つめ続け茫然自失となる木偶の童子の額に冷や汗が浮かび上がってくる。 次第にあれこれと考え込み、軽いめまいすら覚えてしまう。 それからは、木偶の童子の怒りと不安とを更に逆撫でするように形を変えていき、やがては木目の形がいつだったか見たばかりの【歪な半月形に象られ笑みを浮かべている最中の明得の両目】に似ていると錯覚するまでに混乱し一睡もできぬ夜を過ごしたのだった。 * とん、と――己の腹の内部から軽く蹴りあげられるという不気味ともとれる感覚を覚えたのは、木偶の童子が眠れぬ夜を乗り越え眩しい朝日に目を細めて顔をしかめた直後のことだ。 (精神の疲弊からくる誤認なのだろうか――それとも____) その後、本格的に世界全体が目まぐるしく回転し続けているのではないかと錯覚する程に強烈なめまいと、胸の不快さとを覚えた木偶の童子は今度こそ我慢できずに、早朝のため誰もいない自室の布団の上へと倒れてしまうのだった。 *

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