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童子は母の夢を見る【夏の月・結】

* 「……い、おい____大丈夫か?もう起床の時刻はとうに過ぎているぞ――まさか、どこか具合でも悪いのか?」 「凶善……あなた、少しばかり声が大きいのでは?ほら、木偶の童子も……顔を歪ませながら苦しそうに呻いてるじゃないか」 ふと、意識を失っていた木偶の童子の耳に届いたのは辺り一面に響き渡る程の大きな声で喚く凶善の声。 更に、それをからかうかのように冗談っぽく笑いかけているのは屋敷の主人の息子である尹の声。 本来であれば、この屋敷に半ば強引に連れて来られた此方に対して親しくしてくれている彼らの声を聞いて安堵を抱きそうなものだが、それとは裏腹に木偶の童子の心を捕らえたのは安堵の心ではなく、むしろそれとは真逆の不安な心だった。 (優しくしてくれる彼らに余計な心配をかけさせてはならない) (ましてや彼らにあのことを悟られてはならない――何としてでも……) 「実は……少しばかり体が怠くて――更に腹が痛むのでございます。申し訳ありませんが、今日の屋敷内の公務は――」 と、そう言いかけた時____真っ先に立ったのは尹だった。 「うん、きっと日頃からの屋敷での公務が負担となって疲労してしまったんだね。よし、僕から父上に伝えとくよ。あ、そうだ……凶善はここにいて看病してあげるといい」 尹の口から【父上】という言葉が出ただけで軽くえづきそうになってしまったのだが、それでも何とか我慢すると木偶の童子は笑みを浮かべて彼らを心配させまいと努めた。 こうして、寝所には尹が出て行ってどことなく安堵する木偶の童子と、普段は喧しいというのに何も言おうとしない凶善が残された。 * 尹が去って行ってしまった後、互いに何を話せばよいのか分からなくなったため必然的に質素かつ狭い寝所に静寂が訪れる。 しかしながら、決して無音な訳ではない。 狭い寝所にかろうじて取り付けられた最低限の器具があるだけの簡易的な調理場で凶善が小さく鼻歌まじりで《食べ物》をこしらえてくれている。 時折がちゃ、がちゃと器具を掻き回しているかのような音が聞こえてくる。 ぐつ、ぐつ――と何かが煮えているであろう音がとても心地よいと布団に横たわる木偶の童子は思った。 ふわり、と漂ってくる白米の香り。 楊と共に過ごしていた時はめったに口にできなかったものであり、屋敷で働いている今ですら碌に食べられないものだが、日々過ごしていく中で屋敷内に漂うその香りの正体はさすがに分かる。 屋敷の主人の愛息子である尹であれば毎日口にしているものだし、それを目にする機会は単なる付き人でしかない木偶の童子にとって嫌というほどあるからだ。 「こ、これ……食べろよ。言っとくけど味に文句つけるんじゃねえぞ」 此方に顔を向けようともせずに、そっぽを向きながら凶善がずいっと白米の香りがするお膳を差し出してくる。それと共に、胸の不快感は更に増してしまったものの(いくら尹の言い付けとはいえ)凶善の善意を無下にしたくはなく匙で少量掬うとゆっくりと口へと入れてそれを味わった。 口にしてみると、先程から感じていた不快感は完全には消え去ることはないものの、粥状となった白米の独特な香りが緩和されて少しばかり安堵するくらいには白米に混ぜられた《梅の実》が美味しいと思えた。 「あ、ありがとう……ござい……ます」 「はあ?尹様ならまだしも、何で同じ使用人である俺にそんなよそよそしい態度なんだよ――まったく、尹様も何だってこんなすかしたような奴にあれこれと構うんだか。ったく……飯すら碌に食えねえのかよ。言っとくけどな、尹様の言い付けだから仕方なくこんな看病してやってるんだぞ。ほら、こっち向けよ……餓鬼じゃあるまいし口元に飯粒なんてつけてんじゃねえよ 」 口調はぶっきらぼうだが、凶善は何だかんだと悪態をつきながらも、白米などという高価な飯を食べ慣れない木偶の童子の口元についた飯粒をそっと優しく掬い取り、更には悪戯っぽく笑みを浮かべて此方を見つめてきた。 (____とんっ……) まただ____、 また――腹の内にいる【何か】が蠢いている。 * まるで木偶の童子の心から涌き出てくる【喜び】を見透かしたかのように、腹の内部から《得たいの知れない何か》がその存在を此方へ訴えかけてこなければ――どんなに素晴らしい一日だったかと永き夜が終わり朝日が昇るまで問いかけ、とうとう一睡もできないのだった。 しかしながら、だ____。 そろそろ、止まっていた針を進めなければ。 あの御方が、ここにはいない筈のあの御方の目が――襖から此方を見ているような気がしてならない。 そして、何も言わずに――その蛇の如き両目をぐにゃりと歪めながら満足げに笑うのだ。 早急に――早く【種なる脱皮】を進めなければ自分が自分でいられなくなる気がする。 それをするには、まず____。

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