84 / 89

童子は母の夢を見る【夏の月・結】

* 隙間なく墨を塗ったかのように闇にまみれた夜空にぽっかりと浮かぶ真ん丸な月を視界に入れながら、木偶の童子は目的の場所まで歩いていく。 既にほとんどの者が寝静まっているであろう夜更けの廊下に聞こえるのは、木偶の童子が歩く度にたつ布と床が擦れ合う微かな音。 それと屋敷の者らが涼をとるために、半分程開けてある格子戸の外の中庭に聳え立つ木々の葉が吹き付ける風によって擦れ合う風情のある音しか聞こえてこない。 だが、木偶の童子には皆が起きていようが寝静まっていようが――どうでもいいとさえ感じてしまう。 むろん、大いなる計画を行う過程にて必要な【種なる脱皮を完遂する】という目的を邪魔をされるのは困るが、そうでないのならば屋敷の者が何をしていようが構わないとさえ感じた。 【種なる脱皮】を完遂するという目的を行うべく決意の炎を心中に激しく灯した木偶の童子が重要に思うのは、ただひとつ____。 尹様の父親である屋敷の主が、果たして起きているかどうかということのみだ。 屋敷の主が起きていなければ、話しにならない。そもそも、木偶の童子が【種なる脱皮】を完遂すべくその対象として必要なのは己が尊敬している尹様の父である屋敷の主という忌々しき男ただ一人であり、それ以外の者らは全く必要としていないし無関係なのだ。 それを考えてみると、必然的に今時分に起きているのは『屋敷の主ただ一人でなくてはならない』ということになる。 木偶の童子が立てた計画によれば、今時分は屋敷の主は寝所に一人で寛いでいることが大半だ。 屋敷の主の趣味は海を隔てた異国の地から取り寄せた様々な植物を愛で、尚且つ丁寧に世話をすることだと奴の息子である尹様から聞いていた。それと同時に、奴らしからぬ慎ましい趣味は寝静まっている真夜中に行うことが多いということも既に耳にしていた。 立場の違いから直接的には口にできないものの、屋敷の主を矮小な存在だと認識している木偶の童子にとって奴の趣味など心底どうでもいい。更に言ってしまえば、それを生き生きとした表情で語る尹の姿など見たくはなかった。 だが、仕方がない____。 奴の趣味を知ることは、【種なる脱皮】を完遂するという大いなる目的にとっては必要となるべきことのひとつだし、そもそも奴の息子である尹様は事情など知らないのだから――仕方がない、どうしようもないのだ。 それに、尹様は奴のもうひとつの慎ましい趣味を話してくれた。 しかしながら、異国の植物を手に入れて愛でながら世話をするというのを話してくれてた時とは違って僅かながらに伏し目がちに教えてくれたのだ。 『父上は、夜な夜な按摩師を呼んで――それから暫くするとお酒を飲んだ時みたいに顔を赤らめながら……凄くすっきりした顔をしているんだ。ねえ、木偶の童子……どうしてだと思う?』 その時の奴が、何をしていたのか――どうやら純粋無垢な尹様は分かっていないらしく真剣な眼差しで此方を見上げながら問いかけてきた。 むろん、その時は尹様に対して真実を答えられなかったが、そのおかげというべきか木偶の童子がこれから何をするのが一番得策なのかということを間接的に彼は教えてくれたのだ。 無意識に、口元が歪んでしまう。 蝋燭の灯りで奴の黒い影が、障子にゆらりと浮かび上がっているのを目の当たりにしたからだ。 そして、その影はひとつのみ____。 すう、と息を飲み吐いてから木偶の童子は緩んでしまった表情を引き締めると障子に手をかけ寝所の戸を開けるのだった。 *

ともだちにシェアしよう!