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童子は母の夢を見る【夏の月・結】

襖を開いた途端、醜悪としか言い様のない男は無言で木偶の童子を手招きした。 その瞬間、体の内から、ふつふつと怒りが沸き上がってくる。それは今まで荒廃しきって醜い者らを沢山目の当たりにしてきた貧困街にて暮らしていた時でさえ感じたことがないくらいに激しいものだ。 しかしながら、それを決して面に出してはならないと何とかして飲み込んだ。そうしなければ、目の前にいる憎き男に計画が露見してしまう。 この屋敷の主は、金と色に憑かれた醜悪かつ他人の心などどうでもいいと思っているような最低な下衆だが、そのせいなのかは分からないが妙に勘が冴えている面もあるのだ。 むろん、今日が駄目でも後に機会はいくらでもあるが、なるべく今宵から上手く行っていきたいと木偶の童子は考えていた。 そうすれば、無駄な時を過ごさなくて済むからだ。 「木偶の童子よ。いったいぜんたい何事かと思ったぞ。まさか、お前が自らこの寝所へ出向くとは……して、このような夜更けに何の用なのだ?」 にたにたと厭らしく微笑みかけてくる面だけでなく――その声すらも醜い屋敷の主たる男は、必死で作り笑いを浮かべ続けている木偶の童子へとどことなくわざとらしい仕草で問いかける。 「今宵はことに暑苦しく寝付けなかったため……ぶらぶらと屋敷内を散歩していたのですが――その際、人恋しくなり訪ねた次第です。このような夜分に申し訳ございません。旦那様は最近、ご体調があまり思わしくないと聞きました故に宜しければ按摩でも如何かと思い、このように準備して参ったのですが____ご迷惑ですか?」 木偶の童子は憎悪など微塵も顔に出さずに屋敷の主人というだけの醜悪で矮小な存在へと返答する。 その際、薄暗い室内を照らす蝋燭の炎が大きく揺らぎ襖に映し出される木偶の童子の影が同調して怪しく歪んだが、単純かつ愚鈍なこの存在はそんなことにすら気がついていないに違いない。 心の奥底でほくそ笑みながら、遂に《種なる脱皮の完遂》に必要な【罠】を仕掛ける。 ふいに懐から、ある物を取り出したのだ。 そして、下衣の裾から屋敷の主人へと向けて伸ばされ、ちらりと覗かせた滑らかで艶のある太腿へと、それを垂らし始めた。 明得の弟子である黒子がくれた、とっておきの【罠】だというそれは、かつて育ての親であった楊と過ごしてきた時の中ではお目にかかったことなどない程に高価そうで僅かに桃色がかった液体だ。 貧乏人には到底手に入れることなどできない物であるということと、僅かに粘り気がついていて尚且つ良い香りがすることに興味を抱いて「これは何?」と思わず屋敷の外を共にぶらりぶらりと歩いていた黒子へと尋ねてしまった。 その黒子とのやり取りは、無論今ではなく数日前の昼間に行ったことだ。 「崇高なる明得様に感謝するんだね。世間知らずで、どこの馬の骨とも知らないお前のために取り寄せてくださったんだ。いいかい、これは香油というものさ」という黒子の愉快そうな笑みも気にかかった。 しかしながら、そのやり取りの内容よりも更に木偶の童子が気にかけた事柄は、その芳香が何処かで嗅いだことがある気がするということだ。 貧民街で共に過ごしていた時、時折――楊が夜中に自分を置いて出て行ったのを思い出した。 「これは何に使う物なの?」と黒子へ尋ねる。すると、間髪入れずに「香油は色を添えるために使用するものさ。つまり____」と、僅かに頬を赤く染めながら黒子は木偶の童子の耳元まで口を近づけて囁きかけてきた。 そして【香油】が色事(性行為)を行う際に場の雰囲気を盛り上げるために使用する物だということを今更ながら理解した。 同時に、貧民街で共に暮らしていた時に時折だが楊の身から良い香りが漂っていたのは何故か――ということも理解せざるを得なかった。 それすなわち、楊は貧民街で共に暮らしていた頃からずっと王宮の誰かと色事を交わしていたということになる。 今となっては、楊の方から王宮の者を誘ったのか何故にそんなことをしていたのかというのは分かりようがない。 しかし、たったひとつ確かなことがある。 それは、信頼していた楊が自分に対して嘘をついていたことだ。 ____ ____ 『ははさま――……どこに行っていたのですか?』 『今宵は、満月がそれはそれは綺麗だったので、外を気まぐれに歩いていたのです。おまえが好きな猫さんのように____』 『それなら、どうして……ともに連れて行ってくれなかったのですか?』 『木偶の童子、おまえは西瓜のように真ん丸い満月が怒ると、怒らせた者をむしゃむしゃと食らうというお話を知っていますか?いくら共にといえど、このような夜分に童子が外を出歩くと満月が怒ってしまうから……だから____おまえはここに置いてきたのですよ。そうでないと、遠いお空に浮かぶ満月から這い出てくる悪鬼に命を奪われてしまうから……っ____』 ____ ____ かつての薄れかけていた記憶を必死に思い出した後に、木偶の童子は育ての親である楊と交わした会話の内容を殆ど狼狽えることなく割りと自然に告げたのだった。 しかしながら、黒子はふっと口元を歪めながら――こう言い放ってきたのだ。 「満月がむしゃむしゃとおまえを食らうだって!?ましてや、遠い満月から悪鬼が這い出てくるだって?何という、下らない嘘――隠したい秘密を誤魔化すための作話なんだ。いいかい、この紅い香油は特注品なんだ。大抵は悪いことをした奴らを懲らしめるのに利用する際に使われる。むろん、この僕だってそうするためにこれを持ち歩いている……おまえの親である楊とかいう男だってそうするために持っていただけさ。おまえは嘘をつかれ、騙されたんだ」 その後、黒子は無知で世間知らずな木偶の童子をひたすらに笑い続けた。 しかし、そんなことなど最早どうでもいい。 信頼していた親同然な存在だった楊から嘘をつかれていたのか、いなかったのかを今更確かめる術などないのだ。 今、やるべきことは――只ひとつ。 むせかえる程に強烈かつ魅惑的な芳香を漂わせる特別な紅い香油を使い、あと僅かで事前に張り巡らせた蜘蛛の巣にまんまと踏み入ろうとしている醜い蛾のごとき屋敷の主の身も心も捕らえるのみだ。 心の中でほくそ笑みながら蜘蛛のごとく冷酷な木偶の童子は、蛾のごとく醜くて愚鈍な屋敷の主の元へと体を寄せて、妖艶なる蝶さながら言葉など必要とせずに上目遣いのみで誘いかけるのだった。 脱皮の光景が繰り広げられるかのように、今宵のために貯めていた金で行商人から買い付けた割と高級な着物を自らゆっくりと脱いでいく。 ごくりと唾を飲み込み、その直後に畳へと押し倒してきた相手の様を目の当たりにして――再び、己の心の奥深くに植え付けられた【黒い種子】を悟られぬように注意を払いつつ口元を醜く歪めるのだった。

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