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童子は母の夢を見る【夏の月・結】
「木偶は……己の身分や、その他全てを失ってもいいと思えるような、そんな激しい恋心を誰かに抱いたことはある?」
そっぽを向いて、此方と目を合わせないようにしている尹から唐突に尋ねられた木偶の童子は面食らってしまい、頭の中がまるで膜を張ったかのようになってしまった。それと同時に、尹に対して何を答えるのが正解といえるのか咄嗟に分からなくなってしまったため暫くの間、呆然とするしかなかった。
だが、尹がそんな問いかけをぶつけてきた時――頭の中に一人の男の姿がはっきりと浮かんできたことは確かだ。
薄い膜が張ったかのように、ぼんやりとした頭の中には凶善が此方を向いて立っている光景が浮かんでいた。
少しばかり意地悪そうに笑みを浮かべながら、立っているという、そんな光景____。
けれど、此方を向いている筈なのに凶善の目には自分は映っていない。
(彼の目に映っているのは……おそらく____)
「____木偶?」
「私は、未だに恋というものをしたことがございません。それに、そのように高貴な思いを誰かに対して抱くなどということは、とてもじゃないですが愚かな使用人でしかない私にとって心の片隅に置くことすら恐れ多きことです。何故、そのようなことを私ごときにお聞きになるのですか?」
ここにきて初めて、恩人ともいえる尹に嘘をついた。
とてもじゃないが、すぐ隣にいる尹の顔は見れない。
尹の口から、「実は以前から凶善のことを恋慕っているんだ」と告げられることが、木偶の童子にとって何よりも恐ろしいことだからだ。
「____ごめんよ。確かにこんな話をするのは、唐突すぎたね。実は、凶善には話してあるんだけど……近々、ぼくと数人の付き人のみが王宮に住まいを移すことになったんだ。その……実は、ぼくは時期王妃候補として桜獅殿に見初めて頂いたんだ。父上も、すごく喜んで下さってる。それでね、ぼくの付き人として凶善と、木偶……共に来て欲しいんだ。ぼくは、凶善も木偶も……本当の家族だと思ってる……だから、どうかな?」
あまりにも、唐突な申し出だった。
取り敢えずは尹の口から凶善に対して特別な思いを抱いているという告白を聞くことはなかったものの、ある意味でそれよりも衝撃的な告白だったと言いきれなくもない。
とにかく、今の木偶の童子に分かることは、尹が次期国王候補である王子の桜獅によって恋慕われたということと、更に今の状況から察するに尹もその申し出を快く受け入れて王子からの恋心を拒否する気が無さそうだということだ。
心の底から火柱のように涌き出てくる激しい怒りを、感じずにはいられない。
(凶善様は……ずっと……あなたのことを想っているのに……何故、あんな――王子の申し出を受け入れるのか……しかも、あんな……あんな――能面のように無愛想で、何を考えているのか分からないような男を……何故、拒否しないのか……)
それは、尹に対しての恨みというよりかは、むしろ王宮から突如として煙のようにやってきた桜獅に対しての怒りといっても過言ではない。
その時だった____。
とん、と……合図をするかのように我が子が腹を軽く蹴り上げたのが分かったため、木偶の童子は覚悟を決めた。
凶善に耐する抗いがたい恋心、それに明得大いなる脱皮を果たすための計画を遂行するのとは別に、己にはまだ王宮に対して果たさなければならない目的があるのを思い出したからだ。
そして、こう答えたのだ。
「有り難き、お言葉です。実は……前々から王宮に対して途徹もない興味を抱いていました。それは、今も昔も変わらないのです。ですから、そのご提案――有り難く受け入れることに致します」
*
まずいことになった。
いよいよ、時間がなくなった。
【種なる脱皮】を完遂するために果たさなければならない内のひとつを、今夜の内にでも行わなければならない。
それは、この屋敷にいる時のみでしか行うことが叶わない。
そして、いつ屋敷から王宮に行くか分からない以上……毒にまみれた汚らわしい芽は、早めに摘み取っておかなくては____。
*
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