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第5話

 その日の夜、部屋のドアを開けようとすると、ロックが解除されていることに気づいた。ドアをそっと開けると、明かりがついている。  またか――とため息をつき、玄関にそろえられたローヒールのパンプスを見下ろす。 「母さん! 何もしなくていいと言ってるでしょう!」  窓ガラスは光り輝いて、カーテンは勝手に変えられ、キッチンのカウンターには、ビュッフェよろしくホテルパンが並ぶ。中には筑前煮、パエリア、シチュー、ラタトゥイユ。コンロには鍋がかかっていて、エビやイカ、ムール貝が入ったブイヤベースがいい匂いを漂わせる。 “あら、お帰りなさい”と、母親の奈津子(なつこ)が、エプロン姿で手を拭きながら息子を迎える。五十を過ぎているが、シワはほとんど無い。若く見られてもおかしくはないのだが、黒髪を留め袖にも合いそうなアップにまとめているため、歳相応に見える。 「冷凍できる物は、冷凍庫に入れて行きますからね。あらやだ、お洗濯物を取りこむの忘れてたわ」  ベランダに出て、いそいそと洗濯物を取りこむ母に呆れながら、戴智はキッチンにあったスプーンでブイヤベースを味見する。  久しぶり――というより、一ヶ月ぶりのお袋の味だ。 「わざわざ俺の部屋で掃除や洗濯するぐらいなら、家ですればいいでしょう」  奈津子は月に一回、戴智の部屋に勝手に来ては掃除や洗濯をし、料理を何品か作っていく。  実家では掃除と洗濯は使用人に任せ、奈津子は料理しかしない。料理が趣味で、家族には手料理を食べさせたいと、かなり手のこんだ料理を作る。 「だって、あなた一人じゃロクに家事なんてできないでしょ?」  何年、このやり取りをしているだろうか。もうお手上げだとばかりに話を切り上げ、奈津子に夕食の準備を頼む。  ダイニングテーブルに、ブイヤベースとパエリア、温野菜が並ぶ。 「あなたと東さんが番になったら、二人ともお仕事があるから大変でしょう? 母さんがこうして手伝いに来てあげますからね。何だったら、家を改装して二世帯住宅にすれば、いつでも孫の顔が見られるし」  勝手に話を進められ、ブイヤベースを食べていた手が止まる。 「父さんが勝手に決めた話でしょうが、別に俺じゃなくても、一奈姉さんと久慈が番でもよかったのでは?」  マグカップをテーブルに置き、奈津子が向かい側に座る。 「本家は代々、女子も“嫁ぐ”ということはしないから一奈も婿養子を取るけど、やはり跡継ぎは長男である戴智にお願いしたいのよ」  マグカップを両手で抱え、コーヒーで一息つく奈津子は、近い将来見るであろう孫の姿を思い描いて微笑む。  奈津子も王永一族の中の、由緒正しい家の出でオメガだ。今は亡き戴智の祖父が、仁英と奈津子の結婚を決めている。 「できれば孫たちのそばにいたいし、うちの敷地に家を建ててもいいし、近くに住んでちょうだいな」  と、勝手なことを言う母親だが、戴智としても親孝行はできるだけしたい。だがそれを、“孫の顔を見せる”という形でできないことが悔しい。  一人っ子ではなく、双子の姉がいてくれたことが幸いだ。姉の一奈は王永の子会社で、鉄製品のインテリアやオブジェなどを製作し、販売する会社を経営している。 「今は仕事で大事なプロジェクトを抱えているので、それどころじゃありません」 「まあ! お父さんと同じことを言うようになったのね」  楽しそうに笑う母に料理の味を褒める。それぐらいしか、今のところ戴智ができる孝行はなかった。  昼休みの社員食堂。社長である仁英が、社員一丸となり団結力を高められるよう、コミュニケーションを取れる食堂を大切にしている。基本的に、営業や外出している社員以外は、社員食堂で食事を取る決まりになっている。それは上層部でも、社長もそうだ。そのためアレルギー対応も完璧で、糖分や塩分、脂質が制限されたメニュー、さらにはダイエット向けの低カロリーなメニューもある。  さらに、後輩社員が気疲れしないよう、食堂での説教は厳禁である。  戴智と東が向かい合って食事を取っていると、戴智の横に同じ定食のトレーが置かれた。戴智と東は立ち上がって礼をする。 「まあまあ二人とも、気を遣わずに座ってくれ」  にこやかに二人を制するのは、仁英だった。 「東君、秘書の仕事には慣れたかい?」 「ええ、王永部長や『新開発部』の皆様のおかげで。まだまだ勉強することはありますが、大変やりがいを感じております」  それはお世辞でも何でもなく、本心であることは戴智にも感じられた。東はまるで、水を得た魚。秘書という縁の下の力持ちでありながら、才能を発揮している。 「ところで昨日、母さんと話をしたんだが」  仁英は声をひそめた。仕事の話ではなく、プライベートに関してだからだ。 「うちの庭を少し改装し、七十坪ほどの土地を空けようと思う。そこに、二人の新居を建てるのはどうかなと」  いずれは跡取りとして本宅に住むが、新婚時代は二人きりのほうがいいだろう。そういう配慮からだ。 「母さんは、一奈にも近くに住んでほしいから、建ぺい率を考えて九十坪ほど空けて、マンションのような建物にしてはどうかと言うんだがね」  仁英としても娘可愛さから、近くに住んでほしい願望がある。だが、せっかくの新婚なのに、姉夫婦、弟夫婦が同居のような形では落ち着かないだろう。マンションのような造りにして、互いの世帯を完全に分ければ問題ない、と考えた。 「父さん」  普段、会社では“社長”と呼ぶが、今はプライベートな話なので、戴智はあえて“父さん”と呼ぶ。

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