7 / 51

第7話

「何不自由ない生活ができて、いい学校に入れてもらえて、入社試験も無くこの王永製鉄に就職できたのです。何も不満はありません。自由なら、プライベートの時間は充分あります」  どこまでも菩薩の表情を崩さない東に、戴智はますます苛立つ。 「やりたい仕事は無かったのか? それも久慈や王永に言えずに、今まで生きてきたのか?」 「あなたはどうなんですか、戴智さん」  問われて、戴智は思い出した。脳裏に浮かぶのは、青い海。  東の細い手首から、戴智は手を離した。心なしか、背中が丸くなる。 「…俺は…海で仕事がしたかった…。子供のころ、父に連れて行ってもらった釣りが楽しくて…」  父親といっしょに笑った記憶が、ほとんど無い。数少ない思い出の中で、仁英と行った釣りは特に貴重だ。 「釣り舟を操縦したいと考えた。だが、父に話しても無駄だとわかってるから、誰にも話したことはない」  王永家の長男として好きな職につけないのは、子供のころから理解していた。小学校の作文でも、なりたい職業に“王永製鉄の社長”と書いていた。 「就職した翌年だ。誕生日のプレゼントに何が欲しいと聞かれて、俺は舟が欲しいと答えた。小さな釣り舟でよかったんだ。だが、父がくれたのは、四十フィートクラスのクルーザーなんだ」  肩を震わせ虚しく笑いながら、“まあ、釣りはできるがな”ともらす。  そのクルーザーで、連休になると戴智は一人、あちこちの海で釣りを楽しむ。たった一人、王永の子息ではなく、ただの海好きな男として。  大海は、自分がちっぽけな存在であることを教えてくれる。だれも自分を持ち上げない。特別な目で見ない。縛りつけない。 「戴智さんは、海がお好きなんですね」 「ああ、海は俺という存在を“無”にしてくれる。人間なんて大自然の中じゃ、海を泳ぐ魚と何も変わらない」  戴智は気づいていなかった。いつもより表情がやわらかいことに。今まで友達も作らず、趣味の話などしたことがない。それから数分ほど、釣りの話になる。 「いつか海に行きましょう。僕も釣りは大好きです。魚は見るのも食べるのも、大好きです」  戴智の表情が明るくなった。今まで、東が見たことのない、明るい笑顔。 「そうか。なら、釣りたての魚をさばいてやろうか? 舟で食べる刺身は格別だ」 「ええ、ぜひ。自慢の釣り竿を持って行きますよ」  そこで、はたと気づく。今まで苛ついていたが、その苛つきが消えていたことに。趣味を分かち合える誰かがいてくれる。 「ところで戴智さん」  東は戴智の前に、片足を立ててひざまずく。まるで、プロポーズでもするみたいに。戴智の手を、そっと取る。 「お望みならば、いつでもあなたのものになります。どういったプレイやお相手が好みですか?」  戴智は言葉につまる。正直、性行為には興味は失せてしまっている。  しばらく黙りこんだ後、意を決した。今ならそのことを、東に話せそうだ。 「父や――ほかの親族にも、誰にも話さないと誓ってくれるか?」  東は拳を左胸に当てる。 「誓います。あなたがそうお望みなら、たとえ口が裂けても言いません」  誓いを立てさせなくても、この男なら他言はしない。そうわかっている。戴智は思い切って打ち明けた。 「実は…、俺はもう勃たない」  二十歳のとき、病院の検査で無精子症とわかったこと、子供を作れる可能性がほとんどゼロに近いこと、さらにそのショックで勃起不全になったこと、全てを話した。 「そんな…」  東の眉は、悲しげに寄せられている。いつもの落ち着きはらった笑みは、そこには無い。 「あなたがそんなに辛い思いをされていたなんて…」  初めて見る東の悲しそうな表情に、戴智の方が逆に何と言葉をかけていいか困ってしまう。 「お前がそんな顔をする必要はない。いずれは父にバレるだろうが、だからといって、勘当されたりすることはないはずだ」  今や戴智は王永製鉄の大切なブレーンだ。ビジネスにおいて損得を常に考える仁英が、感情論で従業員を切り捨てたりはしないだろう。 「戴智さん、あなたは子孫が残せませんが、誰かと番になることは可能です。あなたはアルファなんですから」  東の両手が、戴智の手を優しく包んだ。  アルファ、の言葉に戴智の胸が痛む。会社のブレーンであっても、王永一族にとって何の役にも立たないアルファ。 「久慈、お前がわざわざ俺と番になる必要はない。お前は優秀なオメガだ。遺伝子が無駄になる。お前は…一奈姉さんや、一族のほかのアルファと番になればいい」 「一族にオメガは何人もいます! 僕はあなたとしか番になりません!」  初めて聞いた東の大声に、戴智は目を丸くする。 「なぜ、そんなに俺と…」 「あなたが好きなんです、戴智さん」  好き――面と向かって初めて言われた。留学時代に、クラブなどで行きずりの相手と関係を持ったことがある。だが、相手を好きだと思ったことはなく、相手からも好きだと言われたことはなかった。 「昔から戴智さんのお話はうかがってました。ぜひともお会いしたい――そう思っておりました。お会いして、想像どおりの素敵な方だと思いました。あなたを愛しています」  真っ直ぐな目、かすかに震える唇。年齢よりはるかに落ち着いて見える東だが、今はまるで初恋の少年だ。  ずっとひざまずいたままの東を見ていると、胸が痛い。初めて告白を受けて、どう返事をしていいのかわからない。 「もしも――もしも、久慈とセックスができれば…」  苦しそうにゆがめられた眉には、苦悩のほかに決意もあった。 「俺は変われるだろうか」  精子を持たないアルファ。  勃起しないアルファ。  したがって、誰のうなじも噛むことができない。  もしも、勃起してオーガズムに達することができたとして、そのことがきっかけとなって無精子症の治療に、光明を見出すことができれば。  その可能性にかけてみたくなった。 「戴智さん」  東は戴智の手を強く握りながら見上げる。優しい笑みが、戴智に光を与える。 「私に、試させてください。できれば今日にでも…私の部屋に来ませんか?」

ともだちにシェアしよう!