それから一週間後、ミーティングを終えた後。戴智の個室で、東は数枚のプリントされたB5用紙を戴智に渡した。 「これは…村瀬とジースティとのメッセージのやり取りか」 　声をひそめる戴智に、東も小声で話す。 「はい、スマートフォンでやり取りをして、相手に送信した途端、証拠を消していたようですね」 　村瀬の席の後ろには、壁時計がある。その陰に監視カメラを隠した。かなり高性能で、画面の文字まではっきりと見える。 「なるほど、うちの情報をジースティに流し、その情報量に応じてウェブマネーのコードを送信してもらっているのか」 「ええ。おそらく、そのウェブマネーを直接使うことはせず、買い取りサイトに売っているのでしょうね」 　戴智は重要ファイルにそれらを挟みながらつぶやいた。 「マネー・ロンダリングか…」 　会社のパソコンでは、送受信内容が筒抜けだ。個人のスマートフォンなら、履歴を消せばいい。 　報酬として現金をもらえば、万が一バレたときに没収される。“汚い金”を売り、買い取りサイトから“きれいな金”をもらうマネー・ロンダリングならば免れる。 　そこまで計画していた村瀬だが、誤算があった。あの日戴智や東に出会い、東の読唇術で密会を匂わせてしまった。 「お手柄だな、久慈」 「いいえ。これからが大変でしょう。いかがなさいますか」 「そうだな――」 　戴智は重要ファイルを、暗証番号つきの引き出しに入れて、ロックをかけた。 「まず、課長クラスや責任者、技術系スタッフ各自にメッセージを送る。製造課には、村瀬以外の社員に送ろう」 　今後、指示は戴智が直接行う。工場からのやり取りも、戴智を通して行う。製品の詳細や納期などの日程も、ミーティングなどで告知するのは仮の情報だ。最終的な決定事項は、戴智から直接伝える。 　といった内容で、メッセージの最後に追伸をつけ加える。 　“社内にスパイがいる。信用している社員にだけ送っている。口外はするな” 　そのおかげで、本来ならスパイ騒ぎは疑心暗鬼になり結束も乱れるが、自分は信用されているという安心感から、戴智を中心に部下たちはまとまっていく。 　盆休みになった。王永は十連休だが、戴智が所属する『新開発部』をはじめとするいくつかの部署では、せいぜい六日間になる。工場では、日祝と十三日から十五日、と飛び石になっている。 　戴智と東はともに六日間の休みを、クルージングで過ごす。 　早朝、王永市のヨットハーバーで、東は真っ白で大きな船を見て驚いた。 「これは…！　四十フィートと聞いてましたから、相当大きいと思いましたが」 「ああ。維持費や燃料、保険なんかでかなり金を使うんだ。思えば、父がこれを買ってくれたのは、“これを維持できるよう、仕事を頑張れ”の意味があったのかな」 　釣り竿やスーツケースなどをかかえ、クルーザーに乗った。まず目に飛びこむのは、ダブルサイズのベッド。天井には、シャンデリアがきらめいている。ベッドと向かい合うようにテレビがあり、その下はキャビネットで、グラスやウィスキー、ブランデーなどのアルコール類が入っている。小さなテーブルとソファーがあり、奥はミニキッチンとシャワールームになっている。生活スペースの広いキャビンのほかに、はしごを上れば景色を眺められる小さなキャビンもある。 　ヨットハーバーの停泊料さえ払えば、移動しながら宿泊ができる。自由な時間に起きて気ままに過ごせる、たった一人だけの空間。 　飛行機のファーストクラスに乗り、ホテルのスイートルームに泊まる方がよほど安い、というぐらい燃料費が馬鹿にならないが、それでも戴智はこのクルーザーで過ごすのが好きだ。 　サングラスをかけた戴智が、クルーザーを発進させる。広い海をすべり、水しぶきを上げて旅立った。 「今日から六日間、台風の心配はないからな。よかったら、上のキャビンで景色を見るといい」 　いいえ、と東が隣で首を振る。 「隣でお話させてください」 　景色を眺めるより、戴智のそばにいたい。そんな東の気持ちがくすぐったくて、戴智は操縦に集中するふりをした。 　房総半島をぐるりと回り、東京湾に入り、クルーザーは横浜に到着した。前もって予約しておいたヨットハーバーに一時停留する。 　ヨットハウスの海が見えるレストランで、ズラリと並んだヨットを眺めながら、ランチを食べた。 　休憩してから、クルーザーに戻る。少し沖に出て釣りを楽しんだ。 　太平洋のど真ん中、というわけではないから陸地が見える。貨物船や小型の舟なども通りかかる。ウインドサーフィンの色鮮やかなマストも見える。 　真夏の日差しを浴び、のんびり釣り糸を垂らし、とりとめのない話をする。 「海はいいですね。日頃陸地で生活している分、海の上にいるのは特別な気がします」 「そうだろ。俺が王永の跡取りでも次期社長でもなく、ただのちっぽけな存在になれる、そんな場所だ」 「戴智さん…」 　ちっぽけな存在だが、瞳は輝いている。仕事中には見られない、夢いっぱいの少年のような表情だ。