23 / 51
第23話
翌日、実家に戻った戴智は、父の仁英から“サンルームで話さないか”と誘われた。十月の柔らかな日差しが、ガラス越しに降りそそぐ。安楽椅子を二つ並べた間、小さな大理石のコーヒーテーブルには、コーヒーカップが二つ。ガラスの向こうはイングリッシュガーデン。長閑な休日だが、仁英の表情は穏やかではない。
仁英は、一枚の紙を戴智に渡した。最後に“王永市立総合病院”と印刷されて院長の判があるそれは、戴智の診断書だった。
戴智は驚いて目を見開く。
「お前が毎年の検査に診断書を持って来ず、口頭だけの報告だったからな。病院に行って同じ診断書をもらってきた」
本来ならば門外不出だが、王永家当主の命令であり、対象は実子だ。病院側も承諾して診断書を再発行した。今年の春に戴智が破り捨てた物が、紙切れ同士が再び集まって勝手に修復し、戴智をあざ笑う――戴智にはそんなふうに思えた。
嘘偽りない用紙を持つ手が震え、言い訳が出て来ない。
「…すみません…黙っていて…」
必ず報告しなければいけない義務だった。しかもその上、“異常はありませんでした”と嘘までついていた。しかし跡継ぎとして、同じ男として、どれだけ精神的に衝撃を受けるか痛いほどわかる仁英は、怒鳴りもせず美しく手入れされているバラ園をガラス越しに眺めながら、パイプをふかしている。
「まあ、気持ちもわかるが…。跡継ぎのこともあるから、早めに対処せねばならん、ということも理解できるな?」
父の言うとおりだった。このまま周囲に黙っていて、戴智と東が番になったとしても子供は産まれず、急遽姉の一奈に跡継ぎを頼まねばならない、ということになる。
「戴智は、私の自慢の息子だ。今回のプロジェクトにしても、よくやってくれた。感謝している。跡継ぎができないとはいえ、お前は王永家の長男であり、王永グループの総帥となる男だ。今までどおり、父さんと母さんの息子でいてくれ」
父の寛大さに戴智は安心した。父は家名と同じく、息子を大事に思っていてくれる。
だが、安心したのは束の間だった。
「跡継ぎは、一奈と東君を番にして、東君に産ませることにしたよ」
「何ですって…!」
戴智は思わず立ち上がっていた。仁英は一瞬戴智を見上げたが、また、視線を庭の方に戻す。
「まあ、東君はお前の秘書であるから、仕事に差し支えるかもしれないが――産休を取る時期を調整してやってほしい」
仁英は、戴智が驚いたのは仕事を心配してのことだろう、と考えた。まさか乗り気でなかった戴智が、短期間のうちに東を愛するようになったとは、夢にも思わなかったのである。
「一奈には昨日話した。東君や久慈家の方にも今朝、私から連絡した」
今朝――東のキスで目が覚めて、シャワーを浴びたら東が朝食を用意してくれて。帰り際には“行ってらっしゃい”とまたキスをくれて。“まるで新婚みたいだな”と、戴智が照れながら部屋を出た後、東も天から地へと落とされたのだ。
「父さん、確か一奈姉さんには、番になりたい相手がいると聞いてます!」
「だから、早く手を打ちたかったのだ」
仁英の目つきが鋭くなった。さすがの戴智も、身をすくめてしまう。
「お前が無精子症だと早くにわかっていたら、一奈と東君をすぐにでも番にしていたんだ。そうすれば、一奈も恋人ができずに済んだものを…」
仁英はあくまでも、王永の由緒正しい血筋を残すことが大事だったのだ。そのためには何としても、優秀な久慈の遺伝子が欲しい。
「お言葉ですが父さん、姉さんがお付き合いしている方は、一族の遠縁だと聞いています。久慈家には劣るでしょうが、我が血族としても何ら恥じることでは…。それに…」
俺は東とすでに恋人同士です、戴智はそう言いたかったが言い出せなかった。そう伝えたところで、仁英の考えは変わらない。現に恋人のいる一奈に、東という別の相手を押し付けている。戴智に望みは無かった。
「お前が一奈を心配するのはわかる」
戴智が、一奈と東が番になるのを反対しているのは一奈に恋人がいるから、そう解釈した仁英はうなずく。
「だが、王永家には久慈家の血が必要だ。わかるな?」
“わかりません”とは言えない。仁英の決定には、何人たりとも逆らえない。前時代的だが、それが王永一族なのだ。
戴智はうなだれて、サンルームを出た。この家には姉も住んでいる。姉は王永家本邸から、自分が経営するインテリアの会社に通っていた。
二階に上がり、姉の部屋をノックする。返事もせずにドアが開いた。いつもはカリスマ美容師に整えてもらっているショートヘアに、櫛さえ入れていない。泣きはらした目は真っ赤で、化粧っ気もない。戴智とは二卵生双生児だが、戴智が長身の美男子であるように、一奈もスラリと背が高く、目鼻立ちが整った美女だ。その一奈が、すっかり疲れ果ててくたびれている。
一奈は戴智を見上げると、ボロボロと涙をこぼした。
「ごめん…姉さん、ごめん…」
「謝らなくていいわよ」
指で涙をぬぐい、一奈は部屋に戴智を入れた。
四つあるソファーの一つに、戴智が座る。テーブルを挟んで、一奈が向かい側に座った。
戴智はテーブルの上で手を組み、力なくうなだれた。
「もっと早くに…俺が無精子症だって正直に話してたら…」
一奈は肘かけにもたれ、乱れた髪を乱暴にかきむしった。よく見れば、シルクのパジャマに薄手のガウンを羽織っている。着替えもせず、部屋に閉じこもっていたようだ。
「…いいわよ。どのみち、私の結婚相手は決まってたんだから」
戴智の胸が痛む。報告が遅かろうと早かろうと、一奈が東と結婚する運命は変わらない。
ともだちにシェアしよう!