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第43話

 一奈と東は、王永家の本邸に移った。一奈の部屋は前に使っていた部屋で、東はその隣だ。子供ができるまで、二人とも家から出ることは許されない。  携帯電話を取り上げられたため、戴智や璃子とやり取りはできない。一奈や東宛ての手紙は、全て仁英に開封される。  戴智と璃子は、本社近くの社宅に引っ越した。3LDKの広さがあるので、寝室は別々にできて互いに気を遣うことはない。だが、妊婦である璃子に家事を任せっきりにはできない。通いの家政婦を雇い、掃除や洗濯などの家事を頼んだ。  六月に入り、そろそろ梅雨入りだろうかと思われる、じめじめした雨が降った日。社宅に仁英が執事とともに来た。 「戴智、璃子さんの子供は中絶させる。車に乗りなさい」  こともなげにそんな残酷なことを言う父親に、さすがに戴智は反論する。 「そんな…! たとえ久慈家の血筋でなくても、姉さんの子供だ! 王永の跡取りの権利もある! それに、中絶なんかしたら…璃子さんの体に、どれだけ負担がかかるか…!」 「もたもたしてると、中絶できなくなる。そんな不貞の子供は必要ない。処分するしかないだろう。璃子さん、今のうちなら体へのダメージもそう無いだろう。体調がもとに戻るまで、通いで専属の看護師をつけさせて完全なケアもする」  璃子は戴智の後ろで震えていた。まだつわりの症状もあり、安定期ではない。戴智は振り向いた。 「璃子さん、奥の部屋にいてください」  部屋に上がりこもうとする仁英の肩を、戴智は押さえつけた。 「何をする?! 私に刃向かうのか!」 「子供は生きているんだ! 生きる権利があるんだ! そんな害虫を駆除するような言い方をするな!」  戴智の力に逆らいながら、仁英は土足で上がろうとする。だが、腕力では若い戴智の方が上だ。  仁英は後ろにいる執事を呼んだ。 「曽根崎!」 「はっ、旦那様」  曽根崎は一礼すると、部屋に上がった。 「何をするんだ、曽根崎!」  仁英に忠実な曽根崎は、力ずくで女性を拉致しようとしている。璃子に宿った命を、殺すために。 「させるかっ!」  仁英から手を離した戴智は、曽根崎に殴りかかった。左頬に拳を受け、細い体は吹っ飛んで壁に激突した。 「うっ…!」  後頭部を強く打ったのか、曽根崎は立ち上がろうとしたが、ふらついてその場にへたりこんだ。 「戴智! 私に逆らうのか!」  もう、父親など怖くない。今まで怖かったのは、父親に逆らえば今の生活が無くなるということと、父親の判断が正しかったからだ。  だが、今回は違う。璃子のお腹の子は、一奈と愛し合ってできた子だ。これから両親の愛情をいっぱい受けて、育つ権利を持っている。その子供を殺すなど、正しいわけがない。  戴智は全力で闘う覚悟をした。 「戴智! 言う通りにしろ! 一族に恥をさらすのかっ!」  “恥”という言葉が引き鉄になり、戴智の頭に血が上った。曽根崎のときと同じように、右の拳が仁英の左頬に当たる。後ろに飛んだ仁英は、後頭部をドアにぶつけた。  心臓の辺りが痛い。親に手をあげてしまった。だが、もう後戻りはできない。 「あ…あなたには…人間の心が無いのか! 姉さんの子供を恥だなんて…!」  大きく肩を上下させ、息を整える戴智を、仁英は見上げた。 「…一週間だ…」  頬をさすり、ゆっくりと立ち上がる。ようやく動けるようになった曽根崎が、仁英の体を支える。 「一週間の猶予をやる。その間に、お前たちは王永と縁を切って、よそで子供を育てるか、もしくは子供を堕ろせ。その二つしかない」  間髪入れず、戴智は頭を下げた。 「お世話になりました! ここを出ます!」  戴智には、考える時間など必要なかった。答えは決まっていた。  だが、それは仁英の予想に反した答えだ。戴智がこの王永市を出る、そこまで自分に反発するとは思わなかった。 「戴智! 今日限りで二度と王永家の敷居をまたぐな! 会社もクビだ! 明日、身の回りを整理しろ、いいな!」  顔を真っ赤にして、曽根崎に支えられ、仁英は帰っていった。  璃子が寝室に使っている部屋のふすまが開いた。青ざめた璃子が、目に涙を浮かべている。 「戴智さん…ごめんなさい…私のせい…ですよね」  立っているのもやっと、という状態の璃子の両肩を、戴智が支えてやる。 「気にしないでください。仕事を失ったのは痛いが…お腹の子供は守れました」  これで姉さんに顔向けができる、と戴智は笑顔を見せた。 「それより璃子さん、顔色が悪いから休んでいてください。また引っ越しになりますが、準備などは俺がします」 「でも、それじゃ…戴智さんに負担ばかり」 「俺のことなら気にしないで。今日から無職になったんだし。…あ、明日は会社に行って、私物の整理と引き継ぎがあるので、留守にします。璃子さんは自分の衣類などを片付けて、ほかに何もしないでください。体に障りますから」  号泣したいのを必死に堪えているとわかるような表情で礼を言う璃子を部屋で休ませ、戴智はノートパソコンを開いた。個人か業者で、クルーザーを買い取ってくれる者を探すためだ。父親からもらった物だから、いまだに父親の世話になっているようで腹立たしいが、璃子の通院費用や出産費用、当面の生活費を作らなくてはならない。利用できるものは利用する。戴智の手入れが行き届いた四十トン級クルーザーなら、八百万円は下らないだろう。

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