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第45話

 璃子のお腹が目立つようになってきた。猛暑が過ぎ、ようやく過ごしやすくなった十月。戴智と東の約束の日だ。  例によって東は“頭痛がおさまらない”と仁英に申し出て、曽根崎に付き添われて王永総合病院に来た。脳外科の待合室のソファーに、戴智がいた。まだ暖かい時期なのに、薄手のコートの襟を立てて顔を隠している。東が隣に座った。 「診察が終わったら、また、このフロアのトイレに来い」  それだけ言うと、戴智は席を立った。万が一、曽根崎に見つかると厄介だ。  診察が終わり、東がトイレに向かう。CTスキャンもされて時間はかかったが、頭痛は外からでは仮病かどうか判別しづらく、医者に診せたところで、脳に異常がなければストレスか睡眠不足、肩こりからきたのだろうと診断される。仮病にはうってつけだった。  トイレは男性用産科があったフロアのと、同じ構造だ。奥の用具入れの前の壁に、コート姿の戴智がいた。トイレにはほかに二人いたため、抱き合うことはできないが、戴智と東は安心した笑みを見せた。だが、東はすぐに悲しそうな目になった。東が小声で話す。 「戴智さん…もう…限界です。あなたのいない生活は」  いつか必ず、いっしょになれる。そう信じて五ヶ月近くを頑張ってきたが、解決する目処が立たない今、不安と不満ばかりが募っていく。 「俺もだ…。いつか元通りになると信じてはいても、どう行動に移せばいいのかわからない。今はただ、アルバイトと璃子さんの体調を気遣うだけで一杯だ」  心に余裕がなくなってきている。自分がこんな状態で、子育てに参加できるのか。また、こうしている間も璃子は一人ぼっちだ。初めての出産で不安になっている璃子を、実際には夫ではない戴智には支えきれない。  しばらく考えこんでいた東が、急に明るい表情になる。 「戴智さん、次にお会いするのは、璃子さんの出産が終わってからです。予定日は十二月の十九日ですね。年末の、この病院の外来最終日に、またお会いしましょう」  今までとは打って変わって急に明るい表情になった東を、戴智は不思議に思う。 「どうした? 何かいい案でもあるのか?」  トイレには今、ほかに誰もいない。東は戴智の両手を握る。 「確信はできませんが、方法はあります。多分、年末なら赤ちゃんが産まれてますから、そのときにお会いしましょう」  日時を確認し、誰も来ないうちにとキスをして、まずは東がトイレを出た。万が一、曽根崎が様子を見に来れば、戴智と出くわしてしまう。東が先に顔を見せれば、それを避けられる。辺りを見ると、曽根崎の姿は無い。東は振り返って戴智に微笑む。 「それじゃあ、次は年末に」  月日のたつのは、あっという間だろうが、離れ離れで暮らしていると、一日千秋の思いだ。  その長い日々を、一奈と東は安産を祈りながら離れた所で待たなければならなかった。  工場の下働きなど経験が無い戴智には、重労働だった。王永製鉄にも、大小さまざまな工場がいくつもある。その工員の苦労を、今さらになって知った。  朝から夕方まで働き、家では身重の璃子が食事を作って待っている。普通の新婚家庭なら、そんな夕食の時間は何よりも幸せだろう。だが、戴智は璃子に家事をさせているという申し訳ない思いがあり、璃子は戴智に養われているという、同じく申し訳ない思いがある。いつまでこんな生活が続くのかわからないが、やはり一般の家庭より、どこか遠慮していてギクシャクしている。何より、二人の間にあるのは愛情ではないのだ。  時折、璃子は涙を浮かべる。マタニティ・ブルーが入っているのだろうが、一奈に会えない寂しさと、戴智の世話になっている申し訳なさがある。  今日もまた、戴智が夕食後の片付けを手伝っていると、璃子が泣きだした。 「ごめんなさい…戴智さん…。私ばっかり、何もできないで」  泡だらけの手を拭き、戴智は璃子の背中を優しく撫でる。 「璃子さんは出産という大仕事があるんです。何もできないわけじゃないでしょう? 毎日食事を作ってくれて、ほかの家事だってしてくれて、申し訳ないぐらいです」  もう、臨月に入った。精神的に安定していないと、出産時に響く。戴智は人一倍、璃子に気を遣っていたが、たまに逆効果のときもある。 「璃子さんの手料理を独り占めしてると、後で姉さんにどやされそうだな」  そんな風に冗談も交えて、璃子を落ち着かせてやる。 「そうだ、璃子さん。次に東と会うのが今年の年末で、赤ちゃんも産まれているだろうから、赤ちゃんの写真を撮って見せてあげましょう。今度の休みに、携帯電話を契約します。璃子さんも携帯を持っていた方がいいでしょう」  仁英に携帯電話を解約させられて以来、戴智も璃子も携帯電話を持たなかった。誰に連絡をすればいいのだろうか。璃子も両親とは全く連絡をしていない。仁英が璃子の両親に対して、どのような説明をしているのか、全く想像もつかない。  新たに戴智と璃子が携帯電話を買い、入院の準備も済ませた。予定日を過ぎても何の兆候もなかったが、十二月二十四日、クリスマスイブの朝、璃子の陣痛が始まった。

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