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第46話

 タクシーが産院に着いた。入院用の着替えなどが入ったボストンバッグを抱え、戴智は受付で入院手続きをする。その間に璃子は着替え、子宮口が開くまで陣痛室で過ごす。  廊下のベンチで待っていると、看護士が来た。 「ご主人も、奥様が分娩室に入るまでは中でお待ちください」  促されるままに入ったが、どうしていいものかわからない。璃子はベッドに横になっている。“失礼します”とブランケットをめくると、看護士は腰の辺りに拳を強く押しつけた。 「痛みがつらいときは、ここをこのように押してくださいね」  そう教えられたが、なかなか勇気が出ない。額に汗を浮かべて苦しそうにうめく璃子を見ていると、そんな所を男の力で押して大丈夫なのかと不安になる。  看護士が出て行ってから、戴智は璃子の様子を見る。 「あ…あの…璃子さん、痛いですか?」  言葉が出ずにうなずくだけの璃子を見て、戴智は腰の辺りに拳を当てる。ゆっくり力を入れると、何度目かで璃子の呼吸が落ち着いた。この場に一奈がいてくれたら、そう思いながら、戴智は璃子に水を飲ませてあげたり、額の汗を拭いてあげたりしていた。  夜になった。世間はクリスマスイブで、恋人たちや家族で楽しく過ごしているだろう。去年のクリスマスは、東とレストランに行った。今年もいっしょにいたならば、どう過ごしただろう。  戴智は窓の外、イルミネーションの明かりを眺めていた。  空が白み始めた。璃子の陣痛が始まって、丸一日だ。璃子は昨日の朝食以来、水しか口にしていない。とても物を食べられる状態ではないが、体力が持つだろうかと心配になり、戴智は近くのコンビニでサンドイッチやヨーグルトなどを買ってきた。  陣痛室に慌てて入る看護士の姿を見て、戴智も慌てて入る。ナースコールの子機を握りしめたまま、璃子が荒い息をしている。 「今、破水しました。すぐ分娩室に移ります」  髪が汗でびっしょり濡れた璃子は、顔色も悪く苦痛にうめいている。戴智は祈る思いでストレッチャーを見送った。  ここに一奈が、東がいてくれたら――戴智は何もできないもどかしさを感じていた。  分娩室に入り、およそ一時間。廊下側の扉がゆっくりと開いた。ベンチで待っていた戴智が顔を上げた。 「おめでとうございます。元気な女の子の赤ちゃんですよ」  マスクをしていても、看護士が満面の笑みを浮かべているのがわかる。  どうぞと促され、戴智は分娩室に足を踏み入れる。璃子はまだ分娩台の上だった。真っ白なおくるみに包まれた赤ちゃんを抱いている。汗びっしょりで化粧もしていない素顔だったが、大きな仕事を終え、母親になった女性の力強い笑みは、何よりも美しく見える。  戴智は恐る恐る、赤ちゃんの顔を覗いた。真っ赤な顔で、目がうっすらと開いている。だが、その目は何も映してはいないようだ。これからたくさん、素晴らしい物に出会える、そんな楽しみを持つ濁りのない目だ。 「戴智さん、私たちの娘、瑠奈(るな)です」  璃子の“璃”は瑠璃の“璃”。もう片方の“瑠”と、一奈の“奈”を取った。女の子が産まれたら、そう名付けようと一奈と相談していた。  璃子は赤ちゃんに向かって話しかける。 「瑠奈、戴智パパよ。あなたを守るため、必死に戦ったナイト様よ」  中絶させようとした仁英を殴り飛ばした。そのときのことを思い出し、気まずさと照れくささから戴智は咳払いをした。 「戴智パパも抱いてみてください」  璃子が瑠奈を戴智の方に向ける。思わず戴智は後ずさりをした。 「いや…、俺…赤ちゃんを抱いたことはないし」  遠慮していると、看護士が瑠奈を抱き上げた。 「ほら、パパさんも赤ちゃんを抱く練習をしないといけませんよ」  看護師の言うとおりだ。戴智の子供ではないが、四人で育てると決意したのは自分だ。  ふわりと真っ白なおくるみを腕に乗せられたが、肩に余計な力が入り、たった三キログラムがずっしりと重く感じられる。 「肘の内側で赤ちゃんの首を支える感じで…。左手はこんなふうに添えてください」  看護士に抱き方を指導され、何とか様になった。壊れものを扱うような恐々した手つきだったが、そのうちに慣れてきて、左手で優しく背中の辺りをトントンと叩いてやる。  戴智の腕の中で安心したのか、瑠奈は小さな口で大きなあくびをした。 「いつか絶対、一奈ママと東パパに合わせてやるからな。そして、王永の恥だなんて言わせない。パパが認めさせてやる」  璃子が嬉しさで涙ぐんでいた。いつの間にか、戴智の目もぼやけてきた。  直接血が繋がっていなくても、腕の中の命は、こんなにも愛おしい。早く一奈と東に会わせてやりたい。早く、五人家族になりたい。  次に仁英が何を言おうとも、決意は揺らがない。戴智は小さな命の前で、そう誓った。

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