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第3話

飲み過ぎたと後悔したのは、タクシーに乗った時だった。揺られているうちに、気分が悪くなり始めた。ここで吐いたらダメだと言い聞かせ、望は必死に耐えた。  自宅マンションの前でタクシーから降りた瞬間、道路脇の排水溝に向かって嘔吐した。暗い溝の底に、吐いたものが鈍い音を立てて消えていく。しばらくすると落ち着いてきたので、望は千鳥足でマンションに入っていった。  しかし、エレベーターに乗っている間に、また胃がむかむかし始めて焦った。エレベーターから降りてふらつきながらも自分の部屋を目指す。冷や汗がどっと噴き出していた。合鍵で部屋に入り、玄関で革靴を脱ぎ捨てると、一目散にトイレへ駆け込んだ。  胃から迫り上がってきた物が、口から勢いよく出てきた。吐瀉物は便器に溜まっていき、鼻を摘みたくなるような異臭が漂う。  手探りで洗浄ハンドルを掴んで回した。汚れた水は吸い込まれていき、新しい水が渦を描くように溜まる。けれども嘔吐はなかなか止まらず、便器は再び悲惨なまでに汚れていった。  苦しげな声と生理的な涙とゲロを流せど流せど、それらはなかなか止まらなかった。落ち着いたと思ったそばから、ぐるぐると気持ち悪くなり、胃液が逆流する。頭はがんがんと割れるように痛み、岩のように重たい。身体は一向に楽にならなくて、しんどい。胃の中に残っているであろう酒を全て吐き出すまでは、この調子が続くだろう。  そんなことを考え、げんなりしながら便器に向かって項垂れていると、背後からとんとん、と静かな足音が聞こえてきた。今の望には後ろを振り返る気力すらなかったが、振り返らなくても、そこに誰がいるのかは分かっていた。恋人の佐野 広海だ。 「……のんちゃん、大丈夫?」  心配そうに声をかけられるが、望はそれに答えることが出来なかった。汚い音を立て、嘔吐を繰り返す。額からは脂汗がにじんでいた。  異臭がこもるトイレに、広海が入ってくる。彼は望の傍らに腰をおろし、望の背中を優しくさすった。 「のんちゃん、水を飲もう。このままだと脱水症状になるから」  望がちらりと顔を横に向けると、ミネラルウォーターのキャップを開ける広海が目に入った。寝間着姿でメガネをかけていない彼は、おそらく望の吐いている声で目を覚まし、駆け付けたのだろう。申し訳ないことをしたと思うが、謝罪の言葉の代わりに出るのが吐瀉物ばかりで嫌になる。けれども、そんな自分の様子に狼狽えることなく淡々としている彼が頼もしく、望はひどく安心した。

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