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第16話

  喋っているうちに、顔に集まった熱が引いてきた。視線を上げ、広海を見据える。彼は目を見開き望を見ていたが、やがて考え込むようにゆっくりと目を伏せた。  そしてしばらくの沈黙ののち、広海は口を開いた。 「……何でだろう」 「……え?」 「俺にもよく分かんないんだよね」 広海が困ったように笑う。「でも、のんちゃんの遺産狙いではないのは確かだから安心してよ」 「当たり前だよ、バカ」 望は声を出して笑った。「サラリーマンの生涯賃金なめんなよ。しかも俺が先に死ぬことが前提だし」 「年齢を考えると、それが順当だからねぇ」 「まぁそうだけど」 「それに、のんちゃんは不摂生な生活ばかりしてるし」  そう言われ、確かにと頷く。タバコは毎日2箱吸い、風呂あがりの缶ビールは欠かさない自分と、嫌煙家で下戸な広海とだったら、きっと自分が先に冥土に居を移すことになるだろう。 「……冗談はさておき」  広海はずり落ちてきたメガネをくいっと上げた。 「朝ごはんの時に、結婚のメリットについて話したでしょ? その時に、俺が言ったこと覚えてる?」 「……安心したいがために結婚するってやつ?」 「うん。多分、そういうことなんだろうね。だから今のうちから確約させたいんだよ、この先もずーっと、一緒にいるってことを」  広海はつまり、自分との将来に不安を抱いているのだ。望はむっとした。 「お前、俺のこと信用してねーのかよ」  この8年間、数え切れないほど喧嘩した。倦怠期らしいものもあった。別れ話も何度かした。感情が昂るあまり、泣き散らすことだってあった。 けれどもそういった危機を乗り越え、ここ数年は落ち着いた関係を築いていた。   そうして互いに、互いを最後の恋人にしたいと思うようになった。ベッドのなかで抱き合っていると、普段は素直に心情を吐露できない望も、情事後の濃厚で甘ったるい雰囲気に飲まれ、するすると言葉を紡ぐことができた。広海の人肌をじかに感じ、彼と絶えず口づけを交わしながら、「ずっと一緒にいたい」と囁けば、彼も笑って「俺も」と返してくれるのが嬉しくて。今、この瞬間、俺たちが世界で一番幸せに違いないと思えるのだ。  望はそれで十分だった。確かに口約束でしかないが、広海を信じているから、不安などなかった。だからこそ今しがたの彼の言葉が、胸につっかかったのだ。 「信じてるよ」  広海は穏やかに言った。 「だからこそ、ちゃんとした形で誓いたいんだ。今、ここで。結婚自体はまだまだ先になるだろうけど、絶対にのんちゃんと夫婦になるから」 広海の瞳はどこまでもまっすぐに、それでいて柔らかく光っていた。「俺と、婚約してよ」  言葉を返せなかった。よくもまぁ、そんなギザなことが言えるなと思いながらも、感極まって唇が震え、眼球の奥がじんわりと熱くなった。  指輪を渡す前のためらいがちな広海の姿は、もうどこにもいない。覚悟をはっきりと決め、自分と向き合う彼しかいなかった。 広海がなぜ、ここまで自分との結婚にこだわるのか。今一度考えてみるが、望もはっきりとは分からないままだ。 けれどもこれ以上、理屈っぽく考えなくていいだろう。広海に実直な想いをぶつけられただけで、言葉で喩えようがないほどに心が揺さぶられ、全身が歓喜に震えているのだから。

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