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Before I met you
そのフェンスの裂け目は、おそらく最初は猫が通れる程度の穴に過ぎなかっただろう。やがて誰かがそれを広げて、平均的な体格の男子高校生なら通り抜けられるほどの大きさにした。何人もがそこをくぐるうちに、穴は穴ではなくなり、体を少しよじるだけで通れる隙間になった。正門を通るよりも数分早く校舎にたどりつけるその通り道は、遅刻すれすれの時はもちろん、禁止されている昼休みの中抜けにも重宝されていた。
野上朔弥 も何回かはその通り道の世話になった。まだ教師ではなく生徒だった頃の話だ。
「サクちゃん、コーヒー飲みたい。購買は甘いのしかないから、コンビニの、無糖のがいい、無糖のが。」
そんな時だけ「ちゃん」付けで馴れ馴れしく呼ぶ同級生。傍から見れば親しい友人に見えただろうが、朔弥とその男の間にはきっちりと上下関係があった。見た目こそ童顔で小柄な男だったが、実際は、男が支配者であり、朔弥が隷従する者であった。だが、いじめられていたというのでもない。朔弥は好き好んで、この男の指示に従っていた。
「サクちゃん、コロッケ食べたい。肉屋の、揚げたての。」そんな要求だって受け入れた。肉屋はコンビニほど近くにない。行って帰ってきたら、昼休みはほとんど終わっている。男は朔弥が買いに行っている間にさっさと持参の弁当を食べて、ついでのようにコロッケを2口で飲みこむだけだが、当の朔弥は昼飯を食べ損ねる。そんなことは度々あった。それでも朔弥に不満はなかった。
「サク、今日、家に来る?」毎日のように何かしらの要求をして、何回かに一度はそんなことを言う。そして、その誘いを断ったことは一度もない朔弥だった。
男が、何もかも教えたのだ。恋も、愛も、性も。だから言うことを聞いた。離れられなかった。
「サク、もういいよ。」だからそんな風に突き放された時には、この世の終わりだと思った。「もうこんなことしなくていい。うちにも来なくていい。俺になんか構ってないで、おまえはおまえのこと、一番に考えなよ。」
この男は、誰かの代わりに自分のことを抱いているのだと知っていた。知っていたことを、教えなかった。それが朔弥の唯一の復讐だった。そして、そのセリフを聞いて、分かったのだ。誰の代わりだったのか。
朔弥たちの担任が不祥事を起こして、懲戒免職になった日だった。不祥事の内容は、直接の教え子ではないものの、別の高校に通う少女と出会い系サイトで知り合い、不適切な行為に及んだというものだった。
「先生と、つきあってたの?」朔弥は尋ねた。
「一度だけ。俺はお遊びだったんだろ、向こうにとっては。結局、女がいい人だったんだから。」
「これから、どうするの。」
「弱ってるところにつけこむんだ。」男は笑った。「こんなチャンス逃したら、センセイなんて俺のものにできない。」
「学校、やめるの?」
「学校も……この家の息子だってことも、おまえの友達兼セフレってのも、全部やめる。」
「それがおまえの幸せ?」
「幸せが欲しいんじゃない。先生が欲しい。」
朔弥はそこまでの情熱をもって男を愛してはいない、と思った。ならばこれは失恋じゃなかった。
「……そう。元気で。先生に会えたら、よろしく。」
「何をよろしくするんだよ。」男は笑った。「おまえは、教師に惚れたりすんじゃねえぞ。」
男は自分より背の高い朔弥の頭に手を乗せる。その髪をくしゃっとつかむようにした。
男の最後の言葉が呪縛だった。
言いつけどおり、教師には惚れなかった。
だが、自分が教師になった途端に、生徒を好きになった。その生徒もまた、自分を愛してくれた。
幸せが欲しいんじゃない。先生が欲しいんだ。
蓮にそう言われたら、何もかも捨ててしまえると思ってしまった。でも、幸か不幸か、そうなる前に引き離された。
いいや、幸せだったのだ。その答えが、今、ここにある。
朔弥の膝枕で警戒心もなくうたた寝する蓮を見つめて、朔弥はそう思った。
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