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Cherry blossoms
今年は桜の開花が早くて、卒業シーズンに満開を迎えた。この分では入学式の頃には葉桜もいいところだろう。
「ただいまぁ。」
疲れ切った、でも、明るい声がした。蓮 が帰ってきたのだ。
「おかえり。」俺は蓮の上着を脱がせ、ハンガーに掛けてやる。
今日は俺たちの勤務先の高校も卒業式だった。蓮にとっては、卒業生のクラス担任として、初めて臨んだ卒業式だ。
再会から5年。一緒に暮らすようになってからは3年。つまり、同棲を始めた年に蓮が受け持つことになった1年生たちが、今日卒業したわけだ。俺は主幹教諭で、ここ数年はクラス担任から離れている。言わば若手教員からは煙たがられる「管理職」で、だから今日も教員の打ち上げは一次会で退散した。逆に蓮は最後までつきあってきたのだろう。
「酒臭い……。」と俺は呟く。
「ごめんなさぁい。」こどものように蓮が言う。
「しっかりしてくださいよ、緋山 先生。」
「だって。」俺に支えられながら、よろよろとベッドに向かう。
「あ、ズボン、皺になるから、脱いで。」ベッドに横たわる蓮のネクタイを緩めてやる。
「よかった……。」と蓮が呟いた。
「え?」
「僕のクラス、全員卒業できた。誰もドロップアウトしなかった。よかった。」
「……うん。」
「よかった。」また繰り返す。気が付けば蓮は身体を丸めて、両手で顔を覆っている。その指の間から嗚咽が漏れてくる。
「よかったな。」
「ごめん。朔弥 さん。」
蓮が俺を下の名前で呼ぶのも同棲するようになってからだ。俺は別にどう呼ばれても構わなかったのだけれど、同じ職場でついうっかりそんな風に呼んでしまったらいけないからと、蓮が躊躇していた。でも同じ部屋で暮らしているのに「野上先生」なんて呼ばれ続けるのは、今度は俺のほうが嫌で、二人の時は名前で呼んでくれとお願いした。最近ようやくすんなりとそう呼んでくれるようになった気がする。
「何が、ごめん?」俺は蓮の髪を撫でる。しばらくそんなことをしてやっていると、やがて蓮は泣きやんで、心なしか酔いも少し醒めたように見えた。横たわっていた姿勢から上体を起こし、微笑んでいるのか淋しそうなのか、微妙な表情で話し始めた。
「自分の子でもないのに、こんなに大切で、可愛いって知らなかった。逆の立場の時は先生なんて何も分かってない、分かろうともしないって思ってたけど。……朔弥さんは別として。」
「生徒のこと?」
「そう。人生の中で、ほんの一瞬。長くて3年。週数コマの授業とせいぜいホームルーム。顔を合わせる時間なんてそれしかない。それでも、あの子たちをどうしてあげればいいのかなっていつもいつも考えてた。」
「いつもいつも?」俺はわざと不機嫌そうな声で言う。蓮は一瞬きょとんとして、それから少し頬を赤らめた。
「それはそれ、これはこれ。朔弥さんのことも考えてるよ、いつもいつも!」
「はいはい、ありがとね。」俺は再び蓮の頭を撫でた。
「あのさ、僕もね、もう結構なおっさんなんだから。」蓮はそう言って俺の手を払う。「でも、そうだな。僕よりデカい運動部の奴なんかが目を真っ赤にしてたりさ。そういうの、可愛くて仕方なかった。みんな、すごく眩しくて。これからもっと輝いてほしいなって思った……だから、ごめんって思った。朔弥さんにとっての最初の卒業式、僕のせいで。」
そう。俺が初めて担任をしたクラスの卒業式は、1人欠けていた。蓮の中退によって。もちろんその後にだって、留年したり中退したりで一緒に卒業できなかった生徒はいたし、時には交通事故で亡くなるといった悲劇さえ経験した。けれどやはり、「自分にとっての最初の卒業生」は全員揃って送り出したかった。それが本音ではあるけれど。
「あのまま卒業したら、蓮はきっと戻ってこなかったよ。大学に進んで、新しい人に出会って、新しい恋をして。俺のことは、忘れて。……忘れないとしても、ただの懐かしい思い出になって。」
「朔弥さんも、他の人と?」
「そうかもしれないね。」
突然中断された恋だから忘れられなかった。20年も封じ込めていた恋だから色褪せなかった。
「水持ってくるよ。」俺はベッドから離れて、キッチンに行き、ウォーターサーバーの水を注ぐ。そのコップを手に寝室に戻ると、蓮はパジャマに着替えていた。すっかり酔いも醒めてしまった様子の蓮を見て、白けたことを言ってしまったかな、などと少々後悔した。蓮の脱いだズボンは乱雑に床に放り出されていて、いつもなら小言のひとつも言うところだが、反省を込めて黙って拾い、ハンガーに掛けた。その時ふわりと何かが落ちた。
「朔弥?」
急に呼び捨てされてドキリとした。
「朔弥。」二度目は疑問形じゃなかった。いい年したおっさんなのは蓮より俺のほうだと言うのに、無性にドキドキした。
俺はベッドに片膝を乗せて、蓮にキスをした。
「何、急に。」蓮は照れ笑いをした。
「蓮こそ、急に呼び捨てなんかするから。」
「はい?」
「今、朔弥って。」
「えっ?」蓮はポカンとした。その後、くすくすと笑い、俺の胸元に手を触れた。俺は無精してズボンは穿き替えたもののシャツは式の時のままのワイシャツで、その胸ポケットあたりを蓮の手が探るように動いた。「さ・く・ら。」そう言う蓮の指先には、桜の花弁がひとひら。「朔弥じゃなくて、桜って言ったの。今日風が強かったもんね。さっきも、ズボン掛けてくれた時に、ひらひらって。だから。」
「あ……ああ、そうか。」
俺は恥ずかしくなって、蓮から離れようとした。ところが、蓮のほうが俺に抱きついてきて、離してくれない。
「これからは、朔弥って呼んでいい?」
耳元で囁く蓮の声が、くすぐったかった。
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