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Doughnut

「あぁ、疲れた。小腹も空いた。」蓮がノートパソコンのキーを打つ手を止め、伸びをした。 「期末テスト用?」 「そう。直前プリント。」  俺は俺のパソコンで、教育系の業界誌に寄稿する文をまとめていた。「何か作ってやろうか。炒飯でも。」 「ああ、それもいいけど、甘い物も食べたいんだよね。」 「甘い物ねえ。」俺は冷蔵庫を開ける。「何もないなぁ。よし、コンビニ行ってくるよ。」 「だったら僕が行く。」 「いいよ、それ、今日中に仕上げないといけないだろう。俺のほうはまだ余裕あるから。」 「ありがと。」蓮はにっこり笑う。笑うと、あの高校三年生の時と同じように屈託がない。  俺はぶらぶらと歩いてコンビニに行き、いくつかのものを買い込んできた。「ただいま。」 「おかえり。」 「今すぐ食べる?」 「あとちょっとで終わるから、待ってて。誤字脱字のチェックだけしたら終わる。」 「見てやろうか。他人が見たほうが分かる。」 「じゃあ、お願いします。」俺は蓮の座っていた椅子に座る。蓮はすぐ横で一緒に画面を覗き込もうとしていたが、俺は印刷ボタンをクリックする。「印刷しなくていいのに。紙がもったいない。」 「画面だと目が滑る。」 「そうかな?」 「経験上、そうだ。画面で何度チェックしても、印刷した途端に誤字を見つける。初校の段階で印刷物で確認したほうが格段にミスは少ない。特に生徒に配るものは紙代はケチらないほうがいい。」 「そっかぁ。」学校ではもう中堅の教員の顔をしているのに、俺の前ではこどもみたいな蓮だった。蓮がふわりと動いたから、俺はてっきりプリンターのところに行って、出力された紙を取ってきてくれるのかと思ったら、そうではなかった。「何買って来たの。」なんて言いながら、俺の買い物袋を探る。  俺が買って来たもの。それは。 「チョコ掛けのドーナツ。と、鮭のおにぎり。……これ、もしかして。」 「うん。あの時と同じ商品じゃないだろうけど。」何しろ20年以上経ってる。全く同一というわけには行かなかったが、定番商品だったおかげで、似たようなものはあった。 「覚えててくれたんだ。」 「覚えてるよ。相手の好みが分からないと、自分の好きなものを選ぶだろう? だから、あの時の俺への差し入れって、蓮が好きなものなのかなと思って、それにした。」 「当たり、その通りだよ。……おにぎりより、ドーナツのほうが高かった?」 「ああ。」 「ドーナツ代、払わなきゃね。」 「うん、あとでたっぷりとな。」結局俺は自分で印刷物を取りに行き、内容のチェックを始めた。   問.次の和歌を現代語に訳しなさい。    「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」  菅原道真か。……春な忘れそ。春を忘れるな。   ……きっと梅だって忘れやしない。自分を愛してくれた道真のことは。彼を慕って梅の木が遠く大宰府まで飛んで行った伝説すらあるぐらいなんだから。  俺だってね、蓮。  おまえのことなら、ドーナツひとつのことだって、覚えてるよ。

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