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第19話
◇ ◇ ◇
思わずむせかえってしまうくらいに辺りに漂う強烈な酒の香り__。
大海原を越えて__この訳が分からない場所に辿り着いてからどのくらい経ったのだろうか、と尹儒は独り寂しく嗚咽をあげて母を求めながらとぼ、とぼと歩き続ける。船頭の男と別れた時は、赤紫色に空が染まってた夕刻だったにも関わらず今はすっかり黒一色に空が染まり、両脇に存在する店の桃燈の光がぼんやりと周囲を照らしている。
しかし、尹儒の他に__人の姿はないように思える。
「____小僧、このような場で何をしているのだ?」
「ひ、ひゃっ…………!?」
どこからか____すぐ近く、から男の低い声が聞こえて尹儒は情けなくも、びくりと体を震わせるだけでなく、怯えから歯をかちかちと鳴らしつつ__おそるおそる、そちらへと振り向いた。
赤い帽子を被った男が独りで、草履を飛ばしながら__此方を訝しげに見ていた。いつの間にいたのだろう、と尹儒はその男に負けず劣らずの訝しげな視線を向けたけれど、そんな尹儒の様子などお構い無しに赤い帽子の男は遠くへと草履を飛ばしては履き直して再び飛ばすといった一連の動きを繰り返し行っている。
「お、おじさんこそ……何をしているの!?独りで草履を飛ばしているなんて__おかしいよ」
「…………そうか、我はおかしいか。ならば、お前も共にやるか?共に、競争しようではないか……まずは、その泣くのを止めるべきだ__泣いたところで何も解決はしない。自ら行動に移さなければ――何も解決などしないのだから」
「そんな難しいこと__よく分からないよ、おじさん」
尹儒が鳩が豆鉄砲を喰らった時のような間抜け面を晒すと、その男は軽く馬鹿にしたかのような笑みを浮かべるが__すぐに尹儒の手を掴むと、まるで親が子を安心させる時のように尹儒の背中を大きな手で撫でながら草履をなるべく遠くまで飛ばすコツを耳元で囁いた。
「えいっ…………!!」
ぼてっ…………と音をたてつつ、尹儒が男に言われた通りに草履を思いきり飛ばす。すると、尹儒が放った草履は裏を上にしてひっくり返った状態で地に落ちた。
ざざぁ、ざざぁ…………
その途端、先程までは墨汁のような黒一色に覆われていたとはいえ所々に星が煌めいていた晴天の夜空からたちまち大粒の雨が降り注ぎ、傘すら持っておらず無防備な尹儒の体を濡らす。
あまりの冷たさと驚きのせいで、咄嗟に顔を手で覆いながら身を屈めてしまった尹儒__。暫くそうしていたのだけれど、ふと我にかえって反射的に瞑っていた目をゆっくりと開け、それと同時に立ち上がる。
尚も土砂降りの雨に打たれ続けながら、尹儒は飛び込んできた光景を目の当たりにして言葉を失ってしまう。
先程までは己と赤い帽子を被った男の二人しかいなかった筈の周囲に、溢れんばかりの人々の姿があったのだ。ぱっと見た所、大人の男や自分と同じ年頃の男童が笑みを浮かべながら両脇に佇む店を見たり、酔っぱらっていたりと楽しんでいる様子が目に見えて分かる。
赤い帽子を被った男もいつの間にかいなくなっていた。
「あーした、てんきに……して……おくれ……っ……」
「てるてる坊主__てる坊主……」
ふと、少し離れた場所から二人(おそらく)の男童の軽やかで愉快げな声が聞こえ。すれ違う人々の波間を何とかくぐり抜けながら尹儒がその男童達の声が聞こえてくる方へ走って行こうとしたのは、声が聞こえてきた方から赤い帽子がちらりと見えたからだった。
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