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第28話
焦点が定まらない不気味としか言い様のない魄の目は、ひたすら虚空を見上げている。
声には出さないものの、だらしなく半開きとなった魄の口からは何事かを呟いているせいでもごもごと小刻みに動いている。小さく動き続ける半開きとなった口元からは白い花弁がはみ出しているが花の品種の知識に疎い世純には何のものかは判断がつかない。
見るからにぐったりと脱力し、すぐ隣にいる魔千寿にもたれかかるような格好の魄だが、その両手にはしっかりと《対となる二匹の鯉が描かれている金色の扇子》を持っているのが分かった。
世純も目にした事がある扇子だ____。
というよりは、世純自身が目出たく夫婦となった証に魄へ【祝い】として贈ったらどうかと燗喩に進言したのだから見間違える筈がない。
『二匹の対となる鯉は永遠の愛の証なんだよ__賢くて頭の固い世純様……あんたには分からないだろうけどね……』
己が初めて愛した黒子から言われた事を思い出し、目頭に暖かい涙が浮かぶものの、悲観にくれている場合ではないと思い直した世純は魔千寿によって馴染み深い魄に危害を加えられた事に対して、そして尚且つ燗喩の純粋な想いを侮辱された事に対して凄まじい怒りに囚われた。しかし、それをなるべく魔千寿に悟られないように表には出さないように心がけつつも忌々しい魔千寿の胸ぐらのひとつくらいは掴んでやろうと一心不乱に前進していく。
一歩、一歩と魔千寿と正気を失ったようにしか思えない魄の元へ近付いていく度に世純の鼻へ思わず眉を潜めてしまう程に強烈な生臭さが刺激してくる。王宮に仕えるために身売りしてきた世純は元々は貧困街の魚屋にて奉公していたため、鼻が曲がりそうな程の生臭さからくる不快さと幼少期に何度も嗅いだ経験からくる懐かしさとが一気に彼の心に押し寄せる。
魚だ____。
この生臭さは、魚の死臭だ____と鼻を摘まみながら確実に一歩、一歩足を進めていく。しかし、距離からしてもうとっくに二人が座している玉座に到達していてもおかしくはないのに中々辿り着けない。
まるで、背後から何か得たいの知れず尚且つ姿が見えない化け物が世純の動きを阻止しているかのようだ、と内心では恐怖と不安を感じて身震いしながらも足を止める事はしなかった。
そして、ようやく未だに雛人形のように目を細めつつ口元を歪めながら不気味としかいいようのない狂気じみた笑みを浮かべている魔千寿の胸ぐらを掴むために世純が腕を伸ばした時の事だ。
急に、薄暗く蝋燭の炎しか灯っていなかった部屋の景色が一瞬にして変化した。
白い紙に墨汁が塗り込まれたかのような夜空に丸々とした黄金色の満月が浮かび、月明かりが腕を伸ばした世純を覆い尽くしてしまうくらいに照らし出す。
今まで正気を失ったとしか思えない魄と、忌々しく思っていた魔千寿が座していた筈の場所には鮮やかな黄色い花が咲く低木が存在し、酸味さと甘さが入り交じった独特な香りを放っている。
しかし、何よりも世純に混乱をもたらしたのは背後に潜む何者かの存在だった。むしろ、潜むというよりもそれは腕を伸ばしている世純の背後からじっとりと纏わりついているといっても過言ではなかった。
どくん、どくん――と世純の心臓が早鐘のように鳴り響くとほぼ同時に得たいの知れないそれは口を開く。
『世純よ……いつもは冷静なお主が何を慌てておるのだ?』
その言葉を耳にして、世純は驚愕してしまう。
それの声は聞き覚えがあり、尚且つ見知った人物の声であり、本来であれば絶対に今の世純が耳にする筈がないものだったからだ。
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