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第29話
(この声____まさか、そんな筈はない……葉狐様は何者かによって殺害された……今、この場にいる訳がない……冷静になれ、冷静に今の事態を理解しなければ……)
そして、心臓が早鐘のように忙しなく鳴り響く世純は得たいの知れぬ恐怖と不安を必死に押し殺しつつ至った決断は《背後を振り返らないようにする》というものだった。
ずっと昔から、背後に纏わりついて甘美なる声で人をたぶらかす妖が王宮内に蔓延っていると皆々の間で噂されていたのだ。むろん、冷静で頭の固い世純は馬鹿馬鹿しいと一蹴していたものの正に今、そのような状況に陥って信じざるを得なくなった。
『世純よ__此方の世界は愉快なるものぞ』
一歩、一歩と確実に世純は前方に存在する金雀枝に向かって歩んでいく。決して振り返ろうとしないように、そして背後だけでなく前方に広がる景色にも何らかの異変が起こるか全く予想がつかないため警戒するために両目をきつく瞑りながら足を進めていく。
幸いにも、目を閉じていても金雀枝の酸味と甘味が混じった独特の香りが世純の鼻を刺激しているため何処に位置しているかは嗅覚を研ぎ澄ませれば理解できる。
『お主が尊敬しきっていた獅桜(先代王)もおる……お主が心の奥底では美しいと思っていた尹もおるぞ』
その間にも、背後のそれは世純を甘美なる声で誘惑し続ける。しかも、世純が一歩、一歩と歩んでいく度に生前の葉狐の声から若い時代の彼女の甲高い透き通った声へと変化していく。
尚も背後から纏わりついてくる――それ、の容姿など目にしてはいない世純だったが、一歩一歩進んでいく度に容姿までも変化させて己をたぶらかそうとしているのだろうというのは容易に想像できた。
両目を瞑り、恐怖と不安との間で揺らぐ精神を何とか落ち着かせようとしていた世純だったが長い時間、目を閉じているのも疲弊してきた。そのため、一度目を開ける。すると、金雀枝の枝に何か白いものがひらりと身を翻した光景が飛び込んできた。
(早く、早く……あの金雀枝の元まで辿り着かねば……)
と、必死で両足を動かす世純____。
しかし、中々うまくいかないのは背後に纏わりついてくる妖は勿論として、その他にも原因があった。地面が、水をたっぷりと吸った泥のように、ぬちゃぬちゃとぬかるみ前方に行けども行けども金雀枝の近くに辿り着けない。
『世純よ__お主まで吾を哀れむのか?』
『元々は貧困街出身だった下層の【民娘】である吾を蔑み……王宮に住まう女共のように非道の限りを尽くして吾を虐めるのかや?』
『世純よ……吾はこんな王宮になど来たくはなかったのや……とと様やかか様が食いぶちがなくなるからと無理やり__吾を売ったから……本当はとと様とかか様といたかったんやのに……』
元々は民子だった時に使っていた地方言葉が抜けない若い頃の葉狐の哀れみに満ちた声が相変わらず世純を誘惑する。涙声が更に戸惑いを感じかけている世純の心を、風に揺らぐ蝋燭の炎のように揺れ動かす。
つきん、と針が刺さったかのような痛みが心に突き刺さったものの世純は信頼する友である魄と尊敬する現王の燗喩を救うべく前へと進む。
しかし、ここで予想していなかった最悪の出来事が世純を襲う。完全に油断しきっていた。
『世純様、世純様……吾も此方の世界にいるよ?例え、薊とかいう魄の親友に心を奪われかけてる世純でも優しき吾は許してあげるよ__ねえ、だから一度だけ、一度だけでも吾の方へ振り向いて。吾を、愛して……っ……』
愛しく思っていたけれども忙しなく過ぎる日々ゆえに、存在さえ心の片隅で忘れかけていた黒子の声が背後から纏わりついてくるそれから聞こえてきた。
今まで張り詰めていた警戒心、不安――それに凄まじい恐怖までもが黒子を装う声ひとつで全て吹き飛んでしまった世純は勢いよく背後を振り向く。
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