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第36話
すると、無言で身を屈めた【女白・金魚草】が地面に落ちていてドス黒く変色した桜の枝を拾い上げると、そのまま何か言葉を書き始めた。
【そろそろ、客が来る時刻だ……手短に話してやれ】
自然と目線をそちらに向けた尹儒と珀王は一瞬、口を聞けない状態の【女白・金魚草】が何を伝えようとしているか分からずに互いに顔を見合わせてしまう。
「ああ、そうだね……金魚草。この哀れなる小さな、小さな迷い人達が……どうやったらこの逆ノ目郭から脱出出来るか__ぼくの口から伝えるべき、だよ……」
【忠告しておくが、ただ単に客が来る時刻になるだけじゃない……間もなく、血怪雨が降る__そうなったら……厄介なことになるのは、お前も分かっているだろう?】
【女白・金魚草】が地面に書く言葉を見て、【新月・鬼灯花魁】は目尻を下げてどことなく悲しげな表情を浮かべながら、尹儒をちらりと見つめ__そして、少ししてから今度は力強い表情を浮かべつつ尹儒の隣で手をぎゅっと握りしめている珀王の顔を真っ直ぐに見据える。
『尹儒……それに、珀王___本来ならば生者である君らが此処に来て、尚且つ――この亡者らが蔓延る逆ノ目郭から脱出するには、大きな覚悟をしなければならない。それは、とても辛い覚悟だ……生世でぬくぬくと暮らしてきた君らには酷かもしれない。いや、きっと__何度も泣きたくなることだろう』
「…………」
黙って聞いていた尹儒と珀王の顔に緊張が走る。特に尹儒は、隣で鬱陶しそうにしている珀王に構わず、ぴったりと寄り添いながら怯えながら【新月・鬼灯花魁】の顔を見上げ様子を窺っている。
「そ、それでも構わないよ……狐のおにいちゃんと一緒に……母上と父上のところに戻れるなら……っ__ぼくは、頑張るよ。だから、どうやればいいのか教えてください……鬼灯のおにいちゃん……」
「尹儒よ、お前は……それでいいのか?もう二度と泣き言は言わないと弱虫のお前に約束できるのか!?それなら、俺はお前の意見に何も言うことはない――俺とて、住み慣れた王宮に戻り……母様や父様に会いたいのだからな」
珀王が豆鉄砲をくらった鳩の如く、目を丸くしつつ尹儒へと問いかける。その直後、さほど考える時間もなく、尹儒は首をこくりと倒して問いかけに対して肯定の意を示した。
『そうか____分かった。君らの決意がそこまで固いのであれば、僕らも肩の荷が降りたように……少しだけ楽になったさ。でも、これから長い時間を共に過ごすことになりそうだね。尹儒、珀王――君らには、暫しの間……この逆ノ目郭で奉公をしてもらうことになる。つまり、この逆ノ目郭を覆う曇天を晴れさせ、同時にこの桜が満開に咲くのを見届けなければ――この呪われた逆ノ目郭から出られないってことさ』
「ほ、奉公……それって__この郭で働くって……ことなんだよね?」
『そうさ。尹儒、君は【花魁】になり、珀王、君は尹儒の付き人となるんだ。ちなみに、お客様は一筋縄じゃいかない者達だから気をつけなければならないよ。自分の思い通りにならないと不快な気を起こすだけじゃなく、これから郭に来る彼らは生者をとても好んでいて――その反面、敵意を剥き出しにする者もいるからね。特に三人の【妖人】に気をつけて……』
「よ、妖人……それはいったい___い、いや……それはひとまず置いておくとして……郭で働くということは……尹儒は……っ……その__か、体を……客に売らなければならない……ということか……!?」
『それは、そうさ……此処は郭なのだから。それにしても、その齢で郭が花を売る場だとわかっているなんて――珀王、君は……ませた童子だね。それに、何だかんだ尹儒のことが心配なのかい?』
【新月・鬼灯花魁】こと尹が真っ赤になる珀王をからかった時であり、それと同時に何処となく煮え切らない態度で言ってくる【新月・鬼灯花魁】に対して僅かながらに苛立ちを覚えていて尚且つ困惑しきった表情を浮かべている珀王が尋ねようとした時のことだ____。
先ほどまでにはなかった変化が二人に降りかかってくる。
ぽつ、ぽつ――と不気味さを醸し出す空から雨が降ってきて、尹儒と珀王の生身の肌を徐々にだが確実にじわり、じわりと濡らしていくのだった。
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