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第45話

【女白・眠草】の舌が、なめくじの如く尹儒の口内を這い回ってゆく。 しかしながら、突如として尹儒は鋭い針のような痛みに襲われた。 痛みは一瞬にして過ぎ去ったものの、得たいの知れない凄まじい恐怖と不安が先程から付きまとい続け、それは暫くしても彼の身から過ぎ去る気配が微塵も感じられないのだ。 ただ単に悪戯めいて舌を絡めているのみという行為を装い続けてきた【女白・眠草】の歯が、どうすればよいのか分からずに所在なさげに動く尹儒の舌のある箇所に狙いを定めて勢いよく噛みついたせいだった。 「……っ____!?」 口内にじわり、と鉄の味がひろがる。 突如として起きた出来事に対する凄まじい驚きのせいで、尹儒は目に涙を溜めつつ無我夢中で【女白・眠草】から逃れようともがき始める。 強い不快感と、途徹もない恐怖に支配されてしまった尹儒。 だが、その直後に自身に異変が起こり始める。 最初に感じたのは、凄まじい程の息苦しさだ。更には、碌に立ってすらいられない程に強烈な快感が弱き尹儒を支配する。もはや、舌先の痛みなど既に感じなくなっていた。それもそのはずで――尹は先程感じていた痛みを、今は《気持ちいい》とさえ感じてしまっているのだ。 むろん、その全ての異変は尹儒の意思などお構い無しに起こっている。 そして、少し離れた場所から尹儒を見下ろしつつ冷笑を浮かべている【女白・眠草】は、ふと着物の袂からある物を取り出すと、それを躊躇なく口に含んだ。 【女白・眠草】が力なく横たわった己の方へと徐々に近付いてくる様を苦しそうにもがきながら尹儒は見つめるしかなかった。 ただ、透明な小瓶には僅かに粘り気のある黒い液体が入っているようだけれども彼が全てを飲み干した訳ではないのは何となく分かった――。 (あの……液体____あれは……守子のおじさまがよく飲むお酒や……お茶といった普通のものじゃ……ない……あんなに黒い液体なんて今まで見たことが……ない……) 「にっくき魄の息子の尹儒よ……貴様はこれから、大いなる禍厄天呪と、あの御方の恩恵を受けるのだ。それは、疫病の如くじわりじわりと貴様の身を蝕み――やがて、貴様は喜びを抱くと共に後には深く深く後悔するであろう……正に身を焼かれる程に。だが、今はその時ではない……種なる脱皮が始まる前に貴様はやるべきことをやり終えるのだ……邪魔な虫けら共を退治するという、大いなる役割を____」 その愉快げな囁き声が、弱りきった尹儒に最後まで届くことはない。 何故なら、口元を歪め醜く笑いかける【女白・眠草】がそれを告げ終わる頃には、既に尹儒は気絶してしまい意識を手放していたからだ。 とはいえ、気絶した尹儒はゆっくりとはいえ呼吸をしているため絶命した訳ではないのだ。 そのことを確認し終えた【女白・眠草】は、貴様にもう用などないと言わんばかりに尹儒を一人部屋に残して墨汁のように黒き闇がじわりじわりと侵食している郭を後にするのだった。 * ふと、外に出て真上へと視線を向けた【女白・眠草】は満足げに微笑む。 墨汁のように黒い空と、灰色の曇が――まるでゆっくりと丁寧に掻き混ぜたかのように渦を巻き、更には血のように真っ赤な月がぽっかりと浮かんでいる。 (ついに、この時が来た____) あの御方が、大いなる計画を実行するべく動き始めたのだと理解した【女白・眠草】はこれから起こる厄事を頭の中に思い描き、普通の人間ではない妖が練り歩く夜の街を軽快な足取りで進んで行くのだった。

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