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第48話

腰まである白いざんばら髪に、所々黒ずんでいる灰色の質素な着物。 手には、何故かは知らないが絵筆を持っていて、しかもその筆先は朱く染まっている。 いや、染まっているどころではないと尹儒が気付いたのは謎の男が前進してくる度に、ぽたぽたと朱い液体が垂れており、畳を汚しているせいだった。 だが、それも自然と溢れてくる涙のせいで、ぼやけていて一瞬しか見れていない。 そうとはいえ、何となく理解できるのは口元に笑みを浮かべてはいるものの、どことなく焦点の合っていないながらも険しい赤い目で此方をじいっと見据えてくることだ。 尹儒は本能的に危うさを感じて身を起こしたまま冷や汗を滲ませつつ、涙を止めどなくこぼしながら、じりじりと後退する。 しかし、その後に壁にぶつかってしまったことで逃げ場を失くしてしまった。 この状態から逃げているうちに混乱していて、はっきりとしない頭の中で――ふと、ある考えが浮かんだ。 今、尹儒の目の前にいて迫りくる謎の男こそが《狐のおにいちゃん》こと珀王を誘拐し、危険にさらしている張本人なのではないかという単純なものだ。 「ぼ……僕をむしゃむしゃと食べ尽くすつもりですか?き、狐のおにいちゃんみたいに……っ____」 情けないことに、声が震えているだけじゃなく何とも見当違いの質問しか発することができない。 しかも、相手は相も変わらず蛇のように険しく鋭い目付きで此方を見つめてくるというのに、あまりの恐怖からそれを直視できずにほぼ目を瞑った状態で問いかけたものだから余計に情けない。 「まったく、あのいけ好かない餓鬼がいなくなったからいうて……これ程までに腑抜けとなり混乱しきっているとは____。そりゃあ、このままじゃ《悩鬼》の格好の餌食となるやきな。ほれ、きちんと真っ直ぐ前を見てみい……こんなんじゃ一生、あの餓鬼を見つけ出すことも此処から出ることの叶わんわ」 凛とした声____。 その声が、どことなく珀王のものに聞こえたため尹儒はおそるおそる目を開けると、今度はきちんと真っ直ぐに目の前を見つめて男を直視した。 「じ、蛇之・愚生……さん____!?」 「ああ、ああ……そうやき。今は呪いのかかる夜じゃないから、それよりは怖くはないやろ?めんこい童子のお前さんが心配で、心配で――遂に来てしもうた。鷹之・某からは『面倒ごとに首を突っ込むな。生者と関わると碌なことになりはしない』いうて止められたけどな」 呪いがかけられているという先日の夜に出会った時とは違って【蛇之・愚生】は、にへら――と笑いかけてくる。 それは、まるで皺のよった紙面のような、どことなく歪な笑顔だ。しかしながら、その笑みに厭らしさや下品さは感じられない。 むしろ、好感さを抱いてしまうくらいには尹儒は心身共に疲れ果ててしまっていた。 「めんこい童子よ、いつか必ず暗き陰夜は明け……苦しい世界は終わりを告げると愚生は信じている。めんこい童子であるお前が、あの生意気な餓鬼を探すのを諦めかけ弱り果てているのを愚生は見ていられないんや。今晩、《天気屋》を紹介してやるやき、夜になったら、ここにくるといい。愚生らは逃げはしない。必ず、ここでお前を待っているやき」 「っ____!?」 『天気屋って何のこと?』 『どうして、蛇之・愚生さんは……ここに来てくれたの?』 そんな疑問が尹儒の頭の中を支配し、聞き返そうとしたものの何故かお腹をすかせた金魚みたいに口をぱくぱくと開けることしかできず声すら出せないことに気付く。 まるで、口全体が糸でぎざぎざに縫い付けられているみたいだ。 何も発することができずに、戸惑いの目を【蛇之・愚生】に向けたが、彼はそのままくるりと背を向けると煙の如く――その場から姿を消した。 それを見て、『やっぱり彼はニンゲンじゃないんだ』と困惑しきっている脳内でぼんやりと思う尹儒なのだった。 静寂に包まれる部屋に残ったのは、布団へと戻ろうとする尹儒と、蚯蚓がはったような下手な赤い文字で書かれて布団の上にひらひらと舞い落ちた、しわくちゃな紙きれ一枚だけ。 それを拾い上げ、今まで起きた出来事を整理する代わりといわんばかりに、ため息をひとつ吐くと、そのまま夜に起こるであろう奇妙な出来事に押し潰されることのないように《準備》という名の昼寝をしようと再び布団へと潜り込むのだった。 そして、また____母と狐のおにいちゃんの夢を見るのだ。

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