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第50話

からんっ____。 ふと、尹儒が勇気を振り絞り、街を練り歩き、ニンゲンの通行人に扮している【影ゆら】やら他の妖人の群れの方へ近寄るべく行動に移しかけた直後のことだ。 すぐ近くから、何か固いものが落ちたような音が聞こえてきたのに気付く。 最初はどこから聞こえてきたか分からなかったものの、よく耳を済ましてみると、それは真上から聞こえたように思えた。 まるで尹儒の気を引くのが役目だといわんばかりに、その心地よいとさえ思えてしまう独特な音は彼が目線を真上へと動かして確認するまで複数回続けて鳴っていた。 しかし、不思議なことに音は何度もするけれども実際に尹儒の方へと何かが落ちてくることはなかった。だから、当然――固い何かが自分の元へと落ちてくるような錯覚を抱きながらも実際にはそうなっていないため痛みはない。 「……る……てる、坊主――てる、坊主……」 そうして呆然と、真上を見上げることしか出来なかった尹儒だったが、ふいにその音がある一定の旋律を奏でていることに突如として気がついた。 そして、それは愛する母が何度も歌ってくれていた、とある童説歌(子守り歌)のものだったというのも思い出したのだ。 ぽつり、ぽつり――と先刻までは呆然とすることしか出来なかった尹儒が小さな声で歌い始める。 すると尹儒の真上に位置する場所に、ニンゲンなのか、はたまた妖人なのか簡単に見ただけではよく分からない謎の存在が徐々に現れて更には軽々しく飛びはねながら此方へと近寄ってくる。 しかしながら、不思議なことに先程から重力なんて関係ないといわんばかりの身軽な動きで近づいてくる謎の存在に対して恐怖心は全く抱かない。 むしろ、尹儒はその存在に会うことができてほっと胸を撫で下ろす。 何故だか、彼の存在が妙に懐かしいような気がして拒絶することなど考えもつかず、ただひたすら真上を見上げるばかりだ。 妙に懐かしいと感じる不思議な思いは、軽々しく宙に舞う度に風になびく彼の真っ白で長い髪が顔をくすぐる度に段々と増していき、尹儒の心を締め付けては離さない。 「あ……あなたは、だぁれ?」 「われは……そうさね、天気屋とでもいうべきか。それよりも、そなたは……あの輩の元にたった独り生身で飛び込もうとしていたのか?何たる愚かなことをする童子なんさ。そんなもんは、真の勇気とはいわん。間違った思い込みというんさ。分かるかいな、そなたが間違った勇気と気付けずに無謀なことをして……万が一のことが起きたら誰が傷つくことになるのさ?それを己の頭の中だけで考えるといいんさな」 「…………」 尹儒は何も言えずに、ただ縮こまっていた。 口調は柔らかいものの、その謎の存在が此方へと向けてくる強い目は、かつて悪戯をした時に怒った母のものと瓜二つだからだ。 「勘違いするでないんさ……われは、何も友を心配する――その気持ちを悪いなどとは言ってないんさ。むろん、友を探したいという気持ちも悪いなどとは思わん。ただな、そのやり方を変えてみよと言っているんさ。ニンゲンである、そなたが――あの輩の元にわざわざ近づく必要があるのかと、そう問い掛けているんさよ。どれどれ、われが……そなたがこの先、如何したらよいか特別に示してみるとするさね――今回だけ、特別なんさ」 そう言い終えると尹儒が気が付かぬうちに正体の知れぬ謎の存在は軽々と身を翻し、いつの間にか宙から地に降り立っていた。 しかも、そればかりではなく慌てながら周囲を見回している尹儒の背後へ気配もなく近寄ってきて悪戯っぽく何事かを囁きかけるといった余裕っぷりだ。 その直後、またしても「からんっ」という乾いた音が辺りに響くのだった。 何という事はない。 《謎の存在》が先程までは履いていた筈の赤い下駄を、まるで童子のように「ほいっ」といわんばかりに軽く蹴り上げ、それが地に落ちた音だ。

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