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第53話
目を凝らして見てみたものの、灯りがろくにない今の状況では、中身の内容まではよく分からない。
ただ、墨汁みたいに黒く濁りきった汚水がたっぷり入っているのは分かるし、正体は分からずとも心なしか粘り気を含む汚い下水みたいな水中に何かがぷかぷかと浮かんで漂っているのがうっすらとだが見えている。
しかも、その濁った汚水から嗅覚を刺激してくる【魚の生臭い匂い】が漂ってきて先程からずっと尹儒を不快にさせているのだ。
「……ゅ____ん……じゅ____」
中から、微かに声が聞こえてきた気がした。
何度注意深く見つめ続けてみても、薄暗いばかりで何も見えないし何かが浮かびあがってくる気配さえ感じられない。
「誰かいますか?」と何度か問いかけてみても、壺の中からはそれ以降は何も聞こえてこない。
とはいえ、水中にいる相手にうまく聞こえたのかどうかは定かじゃないのだが、ここにきて、尹儒は心の奥底で迷ってしまう。
これからどうすべきなのか。何を信じるのが正解なのだろうかと。
しかしながら、沸き上がってくる邪念を振りきると、確かに壺の中から珀王の声が聞こえてきた――と改めて思い直した尹儒は意を決して壺の縁に両腕をかける。
その直後、着物が汚れるのもお構い無しに身を乗り出して酷い匂いを漂わせる壺の中へと身を沈めた。
匂いも気になったが、それ以上に尹儒が不気味だと感じたのは汚水に浮かぶものの正体が判明したせいだ。
(お魚の目玉____ど、どうして、こんなに……っ…………)
更には、粘り気のある水のせいで中々上手く動くことができない。
大人にとっては何のことはないかもしれないが、童であり尚且つ同じ年頃の者よりも小振りな尹儒にとって、その壺はかなり深さがあり泳ぎなど習得する機会すらなかったため、その身はずぶずぶと底へと向かって沈んでいくばかり。
しかも、おかしいことは他にもある。
見た目は普通の壺よりも、かなり大きめとはいえ、流石に大きすぎるような気がするのだ。現に、中へ入った尹儒がいくら目を皿のようにして熱心に周囲を見渡してみても、珀王の姿が見えることはない。
明らかに普通の壺じゃない____と世間知らずで尚且つ童子である尹儒ですら疑問を抱く。
そもそも、今のこの状況は尹儒が本来王宮にて過ごすはずだった運命とは全く違うものだ。
何事もなく、かつてのように王宮にて暮らしていれば、母と離ればなれになることはなく、更にいえば【数多な魚の目】を見る機会するなかったはずだ。
かつてのように母に守られていれば、孤独な思いをすることはなく、ましてやこんなに心細さと苦しさから泣くこともなかった。
かつてのように王宮にて暮らしていれば、御飯は炊事係の守子たちが丁寧につくってくれていたし【魚】の身をほぐして食べやすいように骨だって取ってくれていて切り身の状態で出してくれていたのだから、こんなに多数の【魚の目玉】を見ることすらなかったはずだった。
でも、今は違う____。
尹儒の目にうつっている光景が間違いなく《現実》なのだ。
都合のいい夢などではない。今、陥っているこの状況こそが紛れもなく尹儒が乗り越えるべき《抗いようのない運命》なのだ。
どんなに息苦しくとも、気味が悪くても目の前に立ちはだかる運命という壁から逃れずに、しっかりとこの奇怪な現実を受け止めなくては――と尹儒が改めて自覚し直し、辺りを観察するうちに、ふとある場所に違和感を抱いた。
生臭い汚水の中にぷかぷかと浮かぶ幾つもの【魚の目玉】とは違って、尹儒の目に止まった場所に存在する【目】は閉じているように見えたのだ。
とはいえ、薄暗い中で――しかも、このような奇怪な状況なのだから尹儒の見間違いということも考えられる。
むしろ、いくら気を強く持とうと決意したとはいえ精神的に弱っている尹儒の幻覚という可能性も捨てきれない。
しかしながら、尹儒はさほど恐怖心や不安を抱くことなく閉じられているであろう【目】へと向かって、必死に手を伸ばしていき何とかして自分の元へと引き寄せようとするのだった。
息が、苦しい____。
それでも、ひとりぼっちは――もう嫌なのだ。
誰も救うことの出来ない、世間知らずな王子は――もう、真っ平ごめんなのだ。
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