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第54話

必死に伸ばした手指に、衣服の裾らしき手応えがあるのを感じると、最後の踏ん張りどころだといわんばかりに根性を振り絞ると急いで相手の元へと泳いでいく。 頬や唇に【生臭い魚の目玉】がどんどん当たる度に、不快さが込み上げてきて、思わずえづきかけてしまう。 だが、何とかそれを我慢して自分が救うべき相手の方へと近づいていき、ぐいっと引き寄せる。 「……っ____い……ちゃん……!!」 《狐のお兄ちゃん》と叫んだつもりが、うまく発音できなくて変な声が出てしまったため僅かに恥じてしまう。 しかしながら、それと同時に安堵を感じて別の意味で涙が溢れそうになってしまう。けれど、何とかして本能的なその行為を堪える。 嬉しさと安心から泣くのは、今じゃない。 この不気味な壺の外から共に脱出してからだ――と思い直し、ぐっと気を引き締める。更に、まだ油断しちゃ駄目だと心の中で言い聞かせると尹儒は目を閉じたままそ珀王の胸元に耳を押し当てる。 どくん、どくん――と上下に脈打つ珀王の心臓の音が聞こえ、更には彼の瞼がぴくりと動いたことから命に別状はないことは分かるがそれでも早めにこの謎多き【壺の中】から脱出しなければならないと危機感を募らせる。 しかしながら、尹儒が火事場の馬鹿力さながら自分よりも大きい珀王の体を必死で抱えながら何とかして真上へと浮上するためにもがき続けるも、それだけでは全く地上へと近づける気配すらない。それどころか、蟻地獄の如くもがけばもがき続けるほど負の連鎖に陥っている気になってしまう。 (いったい、どうすればこの壺から出られるんだろう……ええと、えっとお魚――お魚には……目玉もあるけど骨もあるよね……ってことは、もしかすると……この壺の中には……もしかしたら、捨てられたお魚の骨があるんじゃ……) 尹儒は、珀王と共に元の世界へ戻るため――何よりも今は【壺の中】から必死で抜け出すための打開策を小さな頭で考える。 もはや、ぐだぐだと考えているだけじゃどうにもなりそうにないと最終的に考えた尹儒は【魚の骨】を探す行動に移ることに考えを切り替えることにした。 すると、未だにぴくりとも動かない珀王の体を大切に抱きかかえながら集中しつつ辺りの様子を伺う尹儒の目に、一瞬だけれども薄暗い壺の中で、きらりと光りを放つ存在が目に入った。 母や他人に頼りきりだった、かつての頃の尹儒であれば間違いなく見逃していたであろう刹那的に煌めいた光。いや、見逃したからというわけでなく、その存在に気付いていたにも関わらず己には関係ないからと見て見ぬふりをしていたというべきか。 或いは、得たいの知れないものは怖いから近づきたくはないという童子らしい純粋な我が儘からくる拒絶反応というべきか。 だが、珀王や母を探すために身を犠牲にする覚悟を背負った今の尹儒は決してそれを見逃すことはない。それに、得たいの知れない光を放つ存在から逃げるわけにはいかないのだ。 【小さな魚の骨】が【たくさんの目玉】に紛れ――水の流れに逆らうことなくぷかぷかと漂っている。 尹儒は、とても小さく細い裁縫針のような【魚の骨】をそっと手に取る。壊さないように気をつけなくてはと気を張ってしまう。 そして、ここにきて母である魄の面影を《魚の骨》から見出だしてしまった尹儒はどことなく珀王に対して気まずさともやもやした不快ともいえる思いを抱いてしまう。 しかしながら、そんな不快さを抱いている最中に【裁縫針のような魚の骨】を手に取って少ししてから息が苦しくなった尹儒は酸素を求めて必死に真上へと浮上し、素早く息継ぎをする。 その時、ふいに――かつて叔母上である葉狐様を訪ねた時に、涙を流してしまった母である魄に対して、珀王が照れくさそうに頬を赤く染めつつ何かを渡そうとしていた記憶を思い出した。それは結局は、珀王の手から母に渡ることはなかった。 「あ……っ____」 珀王が泣いていた母に対して渡そうとしていたものは、桜色の手拭いではなかったか――と今更に思い出す。 そして、何も考える暇もなく尹儒は本能的に珀王の懐を探る。 おそらく初恋の人であった母から受け取ってもらえずにいた手拭いは、不器用な性格の珀王であれば、未だに未練を捨てきれずに大事に懐にしまったままなのではないかと瞬時にして思いを張り巡らせたためだ。 【魚の骨】は、弱い光を放ってはいるものの――それ自体は汚れてしまっている。 (これは、汚れを落とすためのもの……狐のお兄ちゃんが母上に思い続けている未練という汚れを落としたら……もしかしたら____) 「珀王、ごめん。僕……どうしても、このお魚の骨にこびりついている汚れを落として――ずっと、側にいたい。僕のことだけを……見ていてほしい」 尹儒はそう言ってから目を瞑ると、あまりの照れくささからか珀王の唇に一瞬だけ触れるだけの接吻をしてから桜色の手拭いで丁寧に魚の骨を包み込み注意深く擦りつけて《汚れ》を拭い取るのだった。

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