55 / 70

第55話

すると、つい先刻まであった筈の【魚の骨】が一瞬にして消え去り、その代わりだといわんばかりに珀王が目を覚ましたのだ。 「お、おに……いちゃん……大丈夫なの……っ____ねえ、おにいちゃん……ったら____ひ、ひゃ……っ____き、気持ち悪い……っ……!!」 僅かばかり希望を取り戻した尹儒が慌てて目を開いた珀王へと声をかけると、その途端に壺の内側からぬめぬめして細長い何かが、尹儒の体に纏わりついてくる。 かつて母と穏やかに過ごしていた王宮での暮らしの中で専門の按摩師によってもたらされていたような快感と安らぎを伴うものではなく、どことなく嫌らしくねちっこい触れ方に凄まじい嫌悪感を抱いたせいで鳥肌が止まらない。汚水にまみれ、物理的に冷たさを感じているせいだけではないはずだ。 それに、目を覚ましたとはいえ明らかに珀王の様子がおかしいのは、幾ら今は世間知らずな童子でしかない尹儒とはいえ分かる。 目の焦点が合っておらず、瞬きすら碌にしていない。 魂が抜けてしまっているかのように、口は半開きとなり尹儒がどんなに声をかけたとてそれに対して答えることはない。 だが、半開きとなり声すら出せずにいるとはいえ――珀王の唇は何かを訴えるように微かに動いている。 (こういう時こそ落ちつかなきゃ……っ____今、僕がやるべきなのは……やらなきゃいけないのは……おにいちゃんが僕に伝えたいことを……理解すること____) 一度、深呼吸をして何とか落ち着きを取り戻した尹儒。そして、無理に珀王を起こさせるという行為を試そうとしていたのを一旦は諦めると、今度は彼のぎこちない唇の方へと目を向けてみる。 声があまり出ていないため、よく聞こえない。とはいえ、もしかしたらわざと《得たいの知れない化け物》に知られないように声を潜めている可能性も捨てきれない。 そのため、尹儒は何とか珀王の唇の動きのみで彼が言いたいことを汲み取ろうとする。 『ご、め、ん、な、さ、い』 これは直感だけれども、尹儒の目にはそう訴えかけてくるように思えた。そして、珀王が誰に対して――そして、何に対して謝っているのだろうかと必死で記憶を探る。 そして、考え抜いた末に――ある、ひとつの記憶を思い出した。 それは、とても些細な思い出で尹儒にとって間接的に関わったことだったため、今の今まですっかり忘れ去っていた日常での出来事だった。 『大叔母様、これはとても綺麗なものですね。異国から取り寄せたものですか?』 『ええ、ええ……そうですとも、珀王。これは万華鏡といって、とても珍しいもの――くれぐれも壊したりなどしないようにね』 今は亡き【葉狐様】と【今よりも幼い珀王】が《異国から取り寄せた万華鏡》の話を行っていた記憶だ。そんな彼らを母と共に部屋の片隅でじいっと眺めていた今よりも幼き自分____。 その後、珀王は《硝子細工の万華鏡》を白理石の床に落とし、粉々に砕けさせてしまい【葉狐様】の怒りを買ってしまったのだ。 鞭打ちにすると怒り狂う彼女と、それを必死で阻止しようと試みる母である魄――。 結果的には、珀王の代わりに魄が鞭打ちされて、珀王は魄に一方的とはいえ純粋な恋慕を抱くことになった。 (そうか……だから、さっき落ちてたのが万華鏡だったんだ――この万華鏡はこの気味の悪い壺から脱出する重要な道具ってこと……なんだよね____狐のおにいちゃん……) 両手で珀王の冷たくなりかけている手を固く握りながら、尹儒は心の中で問いかける。 だが、当然の如く珀王から返事はない。 悲しさと虚しさをぐっと飲み込むと、懐から先程拾った万華鏡を取り出す。 そして、尹儒はほとんど何も考えることなくその《万華鏡》で弱りきっている珀王の姿を硝子越しに覗き込む。 意外なことに、万華鏡の中に映っているのは見たまんまであるぐったりとしている珀王の姿ではない。とはいえ、尹儒にとって得たいの知れないものが映っているわけでもないため、どうしてこんなものが映るのかと不気味さを抱かざるをえない。 【喜】【怒】【哀】【楽】の表情を浮かべた母である魄の顔が、丸い硝子一面を埋め尽くさんばかりに映り込み、更には戸惑うばかりの此方の様子を見透かしたかの如く、くるり、くるりと目まぐるしく回転しているのだ。尹儒が手を回す度に、それは形と表情を変えていく。 桜の花びらのような形になったり、あるいは何といえばいいのか分からない模様になったりと様々だったが、いずれにせよ――明らかに普通ではない《万華鏡》であるにも関わらず、その奇妙な模様がとても美しく魅惑的に感じてしまうのは愛する母の顔を明確に映しているせいだと童子ながら尹儒は理解した。 だからこそ、どうしても目が離せない。このまま《奇妙な万華鏡》から目を離してしまったら二度と母の愛おしい顔を見れなくなってしまいそうで――どうしても《万華鏡》から顔を背けたくない。 そんなわけで周りの状況などすっかりと忘れ去ってしまうくらい食い入るように、ぼうっとそれを眺めている尹儒だったが、ふいにその行為を止めざるをえない出来事が起こった。 今まで感じたことがないくらいの激しい痛みが頬に走ったのだが、それが何故なのかということを考える暇もなく、直後に尹儒の目に怒りのこもった珀王の顔が飛び込んできたのだった。

ともだちにシェアしよう!