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第56話

何が起こったのか咄嗟に判断がつかない尹儒を尻目に、つい先程まではぐったりとして具合が悪そうにしていた筈の珀王が目にも止まらぬ早さで呆然としている彼の手から強引に持っていたものを奪い取る。 その《桃色の硝子でできたおかしな万華鏡》を汚水に浸されていない露出している壺の内側に勢いよく打ち付け始める。 それでも、大壺の満杯に近しい汚水に浸かっているせいで中々力がこもらないせいか、珀王は険しい顔をしながらその行為を何度も繰り返す。 それか大壺が陶器ではなく、木造のものだからなのかもしれない。 「狐のおにいちゃん、やめてっ……やめてよ!!それを壊そうとしないで……っ……母上との思い出を壊そうとしないで……」 尹儒は何故に珀王子がそうしているのかが分からなくて、ひたすらに同じ言葉を繰り返す。 しかしながら、今の珀王には尹儒の涙ながらの言葉は届いていない。 尹儒の頬は、つい先刻に珀王から叩かれたせいで赤くなっている。とはいえ、そんなことなど鏡が存在せず外界から僅かな光すら差し込まない暗き世界に閉じ込められて精神的に追い込まれている彼には知る由もない。 「こうしなくては……俺自身がこうしなくては、俺が駄目になる。結果的に、お前まで巻き込み――取り返しのつかないことになってしまう……これを壊さなければ……あの人の___いや、お前の母でしかない幻影が消えることはなく、永遠にこの暗く光の差さない場所から抜け出すことなどできない」 珀王の声が、小刻みに震えている。 「今の、この状況を創っているのは……俺自身だ。あの人に対して《想いを告げきれなかった後悔》と《禁断の想いを抱いてしまった罪悪感》を抱いてしまっているのが原因だ……だから、俺がこうしない限り――お前の母に恋慕する想いを絶ちきらない限り、前に進めずに永遠にこの中に閉じ込められてしまう」 つい先程までは、怒りに震えて尹儒の頬を叩いたという暴挙にまで出たというのに、その両の目玉は止めどなく溢れてくる涙のせいで歪んでしまっている。 珀王のその悲痛な様を見てしまっては、尹儒に、その行為をもはや止めることなどできなかった。 涙を流しつつ、強い決意を両目に宿らせた珀王は自らの思いを理解してくれた尹儒へと微笑みかけると、すぐに《硝子でできた万華鏡》を壊すべく腕を振り上げ壺の内側へと打ち付ける行為を再開した。 すると、ついに盛大な音をたてて《硝子でできた万華鏡》が割れて辺り一面に砕けた破片が飛び散った。 四方八方に飛び散った《思い出の万華鏡》の破片は、臭い汚水にぷかぷかと浮かんでいる【魚の目】に一斉に突き刺さる。 びきびきと音をたてながら稲妻の如く縦長に皸が入っていき、それから暫くして【大壺の中】から【外の世界】へと勢いよく放り出されてしまう。 ごろごろと地を転がっていった尹儒と珀王の目に、真っ二つになった大壺の残骸らしき物体が映ったのは、二人が無事なのを互いに確認し合って固く手を握った後なのだった。

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