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第58話
尹儒が渾身の力を込めて投げた壺の破片が、桜の木の幹に突き刺さる。
すると、その衝撃で満開に咲き誇る桜の花びらが辺り一面に舞い落ちていく。
少し意地っ張りで容易には素直な気持ちを表に出すことがあまりない珀王ですら、何も言わずにその美しい光景をひたすら見つめ続けるばかりだ。
しかしながら、同じように桜の木から舞い落ちていく花びらを見つめ続けていた尹儒と珀王とはいえ、二人には決定的な違いがある。
それは、二人が見つめている箇所が違うということだ。
珀王は舞い落ちていく花びらそのものを見つめ続けている。
しかし、尹儒は舞い落ちていく花びらだけを見つめ続けているというよりも、むしろ桜の木全体を我を失ったかのように見つめ続けている。
「…………ぎょ____あんなに大きな金魚ょが……何故、あんなところに……っ……」
目をかっと見開き、更に震える声で尹儒が呟く。
尹儒の目には狂ったように誇らしげに咲く桜の木の周囲を、口から泡を吐き出しながら愉快そうに浮遊し続けている巨大な金魚の姿が映っているからだ。
ぐるり、ぐるり――と、ゆっくりと桜の木の周りを浮遊する巨大な赤白模様の金魚は口から泡を吐きながら、ぎょろりとした黒い目玉で尹儒の様を見つめている。
『これは土佐錦という種類なんですよ。昔、あなたが赤子だった頃に……ある人から貰ったのです。まあ、あの人はもう……遠いところに行ってしまったのですけどね』
つい先程までは、辺り一面に舞い落ちていた桜の花びらは巨大な金魚が吐き出す泡ぶくへと変化していく。
まるで、いつの間にやら水槽の中に放りこまれてしまったようだと頭の中では思いながらも、尹儒はひたすら土佐錦なる巨大な金魚から目が離せない。
だからこそ、尹儒はいつの間にか傍らから珀王の姿が消えていたことに気がつけなかった。
【金魚がそんなにも物珍しいやんな?そんなにも好奇心旺盛なんは、昔の魄様とそっくりやき驚いたやなあ……流石は血の力や。そやけどな、尹儒様――あっちにはもっと面白いもんがあるやき、見に行ってみるのは如何やんな?】
ふと、隣から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
とはいえ、それは先程までずっと一緒にいた筈の珀王の声ではない。童である珀王のものよりも甲高く、それでいて話し方は年相応のものではない大人びたものゆえに不思議さを感じて自然と目線を傍らへと移してみる。
すると、そこには襤褸を身に纏った――ざんばら髪の小柄な童がいつの間にか当然のように立っていたのだ。
まるで尹儒の隣にいるのが奇怪なことではないといわんばかりに、そのみすぼらしい格好の男童は立っているのだ。
【ほら、こっちや……こっち____あの桜の木の下にある畑は見えるやんな?あの畑に、どうしても見てみらいたいもんがあるんや……
今まで……ずっとずっと――この時を待ってたんやき役者のお前さんが見んで……どうするんや?】
確かに謎の男童が言うように桜の木の下には、いつの間にやら畑らしき場所が広がっていた。先程まではなかった筈なのに何故――という極めて自然な疑問が尹儒の頭にもちろん浮かんではいたものの、それよりも本能的にその畑には近づいてはいけないような気がした尹儒は男童からぐいぐいと腕を引っ張られても地蔵のように動こうとしない。
しかしながら、そんな尹儒の抵抗など全てお見通しだといわんばかりに謎の男童は力ずくで不気味な空気を漂わせている畑へと連れて行こうと先程よりも更に強い力でぐいぐいと腕を引っ張られてしまう。
尹儒が畑の方へ行ってはいけないと感じたのは、桜の木の枝からゆらゆらと垂れ下がる何かの影が見えていたのも理由のひとつなのだ。
しかし、例えそのことを隣にいる正体不明の男童に言ったとしても結局は畑へと無理やり連れていかれてしまうと悟った尹儒は「嫌だ、行きたくない」などという無駄な抵抗を諦める。
その最中、ずっともやもやした嫌な胸騒ぎを覚えていたにも関わらずだ。
そうとはいえ、他にどうすればよいのか分からなく途方に暮れた尹儒は結局のところ桜の木の真下に広がる畑へ足を踏み入れるために蝸牛の如きのろのろとした足取りで、おそるおそる前へと進んでいくしかないのだった。
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