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第59話

* 尹儒は、おそるおそる一歩一歩近づいていくうちに、どんとそびえ立ち狂い咲く桜の木と、それを取り囲むようにして空中を遊泳している最中で自身の身長よりも二倍以上ありそうなくらいの巨大な金魚の真下に広がる畑がお世話にも立派なものとはいえないくらいに質素な有り様だと気付いた。 そこら辺に転がり落ちている農具は所々が壊れていて、比較的にましなものでも錆びついているため、とてもではないがまともに使えそうにはない。 更にいえば、かつて幼少時に息抜きと称して父母や何人かの守子達と共に少しばかり土いじりをしたことがあった。 その経験がとても愉快だったという記憶が朧気ながら頭の片隅に残っていたからか、庶民である農民達と共に野菜などを収穫したこともあったため、尚のこと目の前に広がっている光景を不思議に感じてしまう。 (あの時____父上からお許しをもらって短いお休みということで母上と共に王宮から出て、農民の皆と畑に行った時は――沢山の野菜とか、果物とやらが植わっていたというのに……) 目の前に広がる奇妙な畑には、ひとつしか収穫するべきものがない。 おかしい、何か変だ――と思いながらも尹儒は巨大な金魚が吐く大きくて歪な形の泡に導かれるようにして、それの元にふらふらと歩いていく。 【ち、ちんぎょ……ちんぎょ____ちんぎょがほしい】 巨大な金魚が吐き出した泡は、歪んだ楕円形から形を変化させ、やがて男の童の形となる。 【駄目ですよ、魄――母の言い付けを守らずそんな我がままをいう子はお月様にむしゃむしゃと食べられ、恐ろしい罰があたりますよ?】 男の童子の傍らに、また新たな人型の泡を作り上げる。今度は男の童子の形ではなく大人の男性の形だと気付いたけれども呆然とするしかない尹儒。 しかしながら、そんな尹儒の心理などお構い無しに奇妙かつ不気味な形としか言い様がない二つの泡は悠々と辺りを漂い続ける。 【いやでしゅ……いやなのでしゅ、ははうえ……あのとき、てにいれられなかった……ちんぎょが……どうしてもほしいのでしゅ……っ____】 【父王の桜獅様に似て、あなたは頑固者ですね。仕方がありません……魄――あなたが罰を受けなくてもいい方法がひとつだけあります。あの童子を此方側へ引き込むのです。簡単なことですよ、あなたがあの畑に植わっている果物を引き抜き……あの臆病者の童子に見せてあげればよいのです】 訳が分からない二人の会話を聞いて何故か嫌な気持ちを抱いたせいで、ぴたりと足を止めて畑に近づいていくのを躊躇していた尹儒のすぐ側で二つの泡がゆらりゆらりと漂いながら物騒な言葉を言ってきた。 そのことに対して、今まで感じたことがないくらいに途徹もない恐怖と不安を抱いてしまった尹儒は咄嗟にその二つの泡から逃れようと背を向けて駆け出していた。 しかし、その異変は突如として起こった。 急に息苦しくなり、うまく呼吸しづらくなる。そのせいで、自分の意思に関係なく全力で駆け出していた尹儒は再び足を止めざるを得なかった。 しかも、今の状態は先程畑に近づいていくのを拒んで足を止めた時よりも遥かに危機的状況であり、あまりの苦しさに単に足を止めただけでなく両膝を地につけ前方に崩れるようにして倒れ込んでしまう。 もはや声すらろくに出ず、半開きとなった口からは冬に吹く隙間風のように「ひゅ、ひゅう……」という微かな吐息しか吐き出すことができない。 更に、弱りきる尹儒に追い討ちをかけるよくな出来事が起きてしまうのは、地に崩れ落ちてしまった直後のことだ。 【ははうえ、このくだものは……なんというものなのでしゅか?】 両膝から崩れ落ちてしまい、弱々しく地に伏せた尹儒の方へ奇妙な形の泡のうちのひとつがどんどんと近づいてくる。 かろうじて動かせる目線をゆっくりと真上にあげた尹儒は、童子の形をした奇妙な泡が丸い形をしている何かを持っていることに気がついた。 しかし、動かすことがかろうじてできるとはいえ、ぼんやりとした視界ではそれが何の果物なのかまでは分からないし、そもそもはっきりとは見えづらい。 しかしながら、目が段々と慣れていくにつれて――ようやく、その果物の正体がわかった。 大きくて丸い果物____。 西瓜だと思っていたそれは、ただの西瓜ではなく――中央に大きな一つめがついている奇怪としか言い様のない西瓜だと気が付いてしまった。 それも、瞬きして一つ目が閉じる度にそこから今まで共に行動して自分を勇気づけてくれていた珀王の苦し気な呻き声が聞こえてくるのだと気付いた尹儒は、それを拒絶するかのように両目を固く閉じてしまい両膝から地へと崩れ落ちてしまう。 徐々に意識が薄れてゆく中、二つの歪な泡が狂ったように甲高い声で笑っているのが聞こえてきたような気がしたが、やがて完全に両瞼を閉じてしまうのだった。 *

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